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壱里塚

2009 年 2 月 21 日

http://mutsu-satoshi.com/2009/02/14/
2月14日の日記の続きです。

西高野街道が面白いのは、堺・大小路から高野山・女人堂まで、江戸時代の1里塚(全部で13本)がすべて現存していることです。そこで今回のガイドブックでは「1ページ」ではなくて「1里塚」ごとに編集しました。

世間に流通している旅行ガイドブックでは、そんな均一なエリア割りで編集はしません。たとえば大阪の旅行ガイドブックを買えば、大阪ミナミなどの中心都市部は「なんば」「道頓堀」「心斎橋」「アメ村」「堀江」などと狭いエリアで細分化されて紹介されます。その中間エリアは掲載されず、まったく紹介されません。

ぼくも当初は西高野街道でも「出発点の堺周辺や終点の高野山周辺は見るべきところはいっぱいあるだろう」と考えました。そこを紹介するのは容易いんです。しかし、そのあいだの街道に一体、何があるのか?西高野街道には南海電車の高野線が併走しています。その南海高野線の「各駅紹介とその周辺」といったポイントでガイドブックを作るほうがいいのではないか?これはかなり悩みました。制作サイドとしては、そちらのほうが作りやすいんです。でもそれでは「街道のガイドブック」にならない。少なくともぼくは「点」(ポイント)ではなくて、「線」(ライン)で、まちを捉えたい。あくまでも「街道」を捉えたい。

それで、ひとまず西高野街道、全52キロを歩くことにしました。江戸時代の人はわずか2日で堺から高野山まで歩いたそうですが、さすがにそれは厳しいので1日に1里、2里づつという感じで取材しました。去年の春から秋までの半年間に西高野街道をいったりきたりで、一体どれだけ往復したことか…。夏の終わりに半袖Tシャツで高野山にいって、あまりの寒さに悲鳴を上げたりもしました。西高野街道の全容を捉えようと思うと、ぼくの当初の想像を遙かに超える取材量が必要でした。

それで、現地を歩いてみて気づいたのが、わずか1里塚(約4キロ)という範囲内で、まさか、これだけの地域情報、資源、文化、民間信仰、習俗、祭りが埋まっているとは・・・という衝撃の事実でした。全く心配する必要なんてないぐらい、西高野街道は「物語の宝庫」という結果やったんですな。

結局、ぼくは1里塚ごとにそれぞれ4000文字ぐらい原稿を書きました。4000文字でも足りないぐらいでした。多いのは6000文字を超えたところもあります。ガイドブックにするさいは「イラストが入りません」といわれて、半分以上、ごっそりと落としました。凹みましたが、ぼくが後先前後を考えずに書きすぎたのは、ぼくが悪いのではなくて、西高野街道の素晴らしいポテンシャルです。ほんとに西高野街道の1里のどこを切り取っても、1つの掌小説が出来ます。まち(みち)の情報量の豊富さ。凄さ。厚み。ぼくが今回の仕事をして、最大の気づき、収穫はこれでした。

『西高野街道ウォーキング徹底ガイド』は、その上っ面部分だけ。映画でいえば宣伝CM程度しかご紹介できませんでしたが、西高野街道のライフやドラマ、物語の入口にはなっているとも思ってます。興味ある方はぜひ買ってみてください。100円ですし。ちなみにガイドブックがどれだけ売れてもぼくに印税は入りません(笑)

お金儲けではなくて作るのに苦労したぶん、愛着があるもので色んな人に手にとってもらいたいと思っています。自分の「まち」「みち」を見つめ直すきっかけになれば、と思っています。


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