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「空白の歴史」と「大阪人的特質」

2009 年 5 月 15 日

中学・高校などに使用されている歴史教科書での大阪の記述は、古代・大和王権の首都であった難波宮(645~654、744~745)から、中世の浄土宗大本山の石山本願寺(1496~1580)、もしくは太閤・豊臣秀吉の大坂城(1583~1615)が登場するまで、約800年にも及ぶ「空白の歴史」が存在します。

もちろんそのあいだには熊野街道の整備や渡辺党の活躍、南北朝の主戦場になったり…といった重要な歴史的事象も起こっていますが、難波宮や石山本願寺、大坂城のような都市形成に至る大きなうねりにはならなかったせいか、基本的には黙殺されています。

難波宮から石山本願寺、大坂城までのあいだ、日本の主要な歴史的舞台は(鎌倉に武家政権が移った時代もありましたが)主に平安京です。このあいだに何があったのか?といえば公家社会特有の権謀術数に満ちた権力闘争の時代。数百年間に渡って弟が兄を倒し、父が子を殺し、娘が母を裏切り…といった陰湿極まりない宮廷政治が繰り広げられました。

これは現在に繋がる京都文化にも影響を及ぼしていて、たとえば京都弁には婉曲な物言いも多く、どこか人を簡単に信用することへの警戒がついてまわっているようです。平安京の呪縛ですが、これも生き抜くための歴史の知恵というものです。

大阪は平安京の時代には何もなかったのですが、この「何もなかったこと」が、じつは現代に繋がる「大阪人的特質」を作ったのではないか?と最近、思っています。

古代の首都・難波宮が廃都になって、しかし、都があった時代ほどではないにしろ、人々の往来は細々とはあったでしょう。なくなったのは欺瞞に満ちた宮廷政治であって、庶民の生活は決してなくならなかった。歴史書に記述されるような政変や事件はなくなり、基本的には平和な文化が800年間、続いたわけです。

当時の大坂は、小さな村落だったのかも知れませんが、古代には首都であったほどの高度な文化的背景を持ち、片田舎だけれども洗練された住民がいて上位組織(朝廷)がないのだから「何事も自分たちで決定していこう」という自治的な政治の萌芽もあったと僕は見ています。

「もとは都があって、それが遷っていった」というのは偶発的な歴史の変遷ですが、この素晴らしい文化的痕跡がなければ、突如として中世の宗教都市・石山本願寺や、会合衆が「黄金の日日」を謳歌した東洋のヴェニス・堺、世界で初めて先物取引市場を生み出した天下の商業都市・大坂のような、秩序社会を形成することは、不可能だったのではないでしょうか?

大阪人の「お上」に従わない自由な精神と自治意識の芽生えは、江戸時代や近代ではなく、この「失われた800年間」があったからではないか?大阪人が心から尊ぶべきは歴史書に登場しない、この「空白の歴史」にあるのではないか?

歴史というのは記録されるものばかりで形成されていますが、しかし本当は記録されないものにこそ、人間のドラマや真実が存在します。それらを発掘、継承することが今後の大阪、日本にとって大切な仕事になると思っています。


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