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2010 年 8 月 6 日 のアーカイブ

萬福寺(大阪市天王寺区)「新選組 大坂旅宿跡」と司馬遼太郎

2010 年 8 月 6 日 Comments off



新選組の6番隊、7番隊、10番隊などは大坂をメインに活動していたといいます。しかし、この辺りの隊士の活動歴について・・・要するに「大坂の幕末」について・・・司馬遼太郎はあまり小説に書いてません。なぜか?

ひとつには大坂が比較的、平和だったこと。幕末の騒乱に対して、大抵の大坂人の反応は「また武士がしょうもないことをやっとる」というもので、徳川でも薩長でもどっちでもええというのが大勢でした。勤皇派も倒幕派もいなかった。商人は利を追いかけるものでイデオロギー(正義体系)に命をかける商人なんていません。要するに争いごとがなかった。

ふたつめ。隊士の活動が小説にならない活動だったから。この大坂新選組の活動の大部分は、じつは大坂商人への借金申込みでした。当時の大坂は日本最大の商都。新選組は、軍資金調達のために駆けずり回り、大坂商人に頭を下げて、お金を貸してもらったんですな。司馬遼太郎はこういう光景は「ヒロイックな新選組像を壊す」「絵にならない」と考えて小説には詳しく書いてません。現実離れした、人間らしさのない、生活感を乖離した新選組像が巷間に伝わっているのは、司馬遼太郎がそれを排除したからです。歴史小説家・子母沢寛がすでにヒロイックな新選組を書いてましたから、第二世代となる司馬遼太郎は、ほんとはリアリティのある新選組を書く必要があったという気がしますが、子母沢寛以上のロマンで脚色しました。ちなみに、大坂の旧家などには、今もようさん新選組の借金申し込みの証文が残っているといいますが、新選組は崩壊したので大抵、大損してるそうです。

みっつめ。司馬遼太郎が大阪人だったから。司馬遼太郎は初期は大阪を舞台にした小説を書きました。ところが大阪人が大阪にいて大阪を書いている以上は東京文壇には認められないんですな。ローカルの小説家として終わる。単なる大阪自慢で終わる。書いても売れない。司馬遼太郎は大阪を書かなくなり、代わりに書いたのが坂本龍馬や新選組で、その中からも極力、大阪のエピソードは省きました。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』における大阪の描写の少なさは意図的なものです。だから司馬ブーム、竜馬ブーム、新選組ブームが起きたときも高知や京都は便乗しましたが、大阪はスルーでした。大阪での坂本龍馬の物語、新選組の物語が司馬小説には描かれていませんから。今も大部分の大阪人は坂本龍馬や新選組が大坂で活動していたことを知りません。

国民的大作家、歴史小説の第一人者を生み出しながら司馬遼太郎が、その出自ゆえに「歴史都市・大阪」を書かなかったのは、大阪の不幸でした。それは武家社会偏重の東京的史観か、天皇・公家社会偏重の京都的史観しかない日本人の歴史認識の薄さ、弱さとなり、日本社会全体の不幸にもなってます。いまこそ、第三極として、町民社会に立脚した大阪的史観・・・『忠臣蔵』や『源氏物語』ではない。『世間胸算用』『心中天の網島』の世界観です・・・が必要なのではないか?

石碑を見て、そんなことを、つらつらと考えました。


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