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近松忌の断想:リアリティと人形

2010 年 11 月 22 日

いまの人形浄瑠璃、文楽は三人で一体の人形を動かします。だから人形とは思えないほど優美な動きを再現することが可能です。全世界に人形劇はありますが「三人使い」ほど、贅沢で、豪奢な、人形劇はありません。江戸時代の大坂の大豪商、パトロン、観客の支持が、その実現を可能にしました。ユネスコの世界無形文化遺産登録は当然ともいえます。

それで面白いのが近松門左衛門が活躍した時代の人形浄瑠璃は、じつは「一人使い」であったことです。近松の心中ものは、いま我々が見ているものと違って、もっとカクカクしていた筈です。もっともっと人形めいていた。だから良かったといえます。

どういうことか?というと、近松の心中ものの描写はやたらと生々しいんです。まず実際にあった事件です。そして男と女が愛欲の果てに、世を怨み、首を括って、喉を突いて、井戸に身を投げて、死ぬ。あまりに悲惨。無惨。例えば『心中天の網島』での紙治の最後はこんな描写です。

「泣きてつきせぬ名残(なごり)の袂(たもと) 見捨てて抱(かかへ)を手繰り寄せ。首に罠を引つ掛くる。寺の念仏も切回向(きりえこう)。有縁無縁乃至法界。平等の声を限りに樋の上より。一蓮托生南無阿弥陀仏と踏みはづし しばし苦しむ。生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとくにて。次第に絶ゆる呼吸の道 息堰(いきせ)きとむる樋の口に。この世の縁は切れ果てたり」

紙治の首吊り死体を「成瓢 風に揺らるるごとく」とまで冷徹に、残酷に描写する。恐ろしいほどに、リアリティに徹しています。この近松のリアリティを、歌舞伎などで演じたら大変です。見てられないぐらい怖い。しかし人形でやるから救われるんですな。正(現実、リアリティ)と反(人形、虚構)が止揚することで、いままで見たことがないような、新しい美の世界が開ける。それを近松は虚実皮膜論といいました。実のような、虚のような世界こそが、もっとも美しいと・・・。

つまり近松は、人形であるからでこそ、思いっきり、リアリティ溢れる描写に書き下ろすことが出来た。もしかしたら近松が「三人使いの人形浄瑠璃」の時代に生まれていたら、近松は、あれほど近松たりえなかったかも知れません。果たして、これほど冷徹に、残酷に、心中ものを描写することができたかどうか・・・?ぼくは、少し疑問に思ってます。

人形浄瑠璃の歴史を調べてみると、近松の一世代後輩の竹田出雲の頃には、もう「三人使い」になっています。つまり近松が活躍した時代は、人形浄瑠璃の試行錯誤の時代でした。それゆえに近松は、大胆不敵に色んな作劇術、演出をチャレンジできた。近松は、人形浄瑠璃が人形浄瑠璃として完成する前、勃興期の、ある意味、稀有な時期の作家だったといえます。

一度、ぼくは近松の心中ものを「一人使い」の人形浄瑠璃で見てみたいなぁ、と思ってます。そうでないと、近松が狙った美が体感できないのでは?と。そういう復刻があってもいいと思っているんですが。関係者の皆さん、どうでしょうか?(笑)

今日は近松忌。以上、断想でした。


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