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大阪の繁華街「キタ」「ミナミ」、名前の由来は… [日本経済新聞大阪夕刊オムニス関西2010年12月1日付] 

2010 年 12 月 1 日

日経新聞の記者さんから「大阪のまちの名称について」意見を求められて、電話取材にお答えしました。以下がその記事です。

大阪の繁華街「キタ」「ミナミ」、名前の由来は…

「今夜はキタで飲もう」「この服、ミナミの百貨店で買ったのよ」。大阪では聞き慣れたこの会話。キタは梅田周辺、ミナミは難波周辺を指すのは関西人だけではなく広く知られた事実だ。ではキタやミナミの呼び名はどのように浸透したのだろう。ヒガシやニシという言葉はないのか。

キタ、ミナミという言葉はどれほど定着しているのか。大阪市によると、いずれも公式文書で使われる正式な表記だ。ただ定義はあいまいで「繁華街としての大まかな場所を指す程度」(同市)という。

ではいつから、どのようにキタやミナミの呼び名が広がったのか。大阪市にまつわる歴史的な地図や資料を数多く保存する大阪市史編纂(へんさん)所(西区)を訪れた。

「キタやミナミは『北』『南』という単なる方角ではなく繁華街の固有名詞が崩れて愛称になったと考えるのが自然でしょうね」と話すのは大阪市史料調査会の古川武志さん(39)。明治時代の文献には「堂島の北、これを北の新地という」「南の新地、南地五花街」との記述が登場する。

古川さんによると、キタやミナミの語源は江戸時代に遡る。当時、住居や商店が集まる中心街は船場だった。現在のキタは森や畑が広がる村で、ミナミは寺や墓場などが目立つ土地だったという。キタとミナミは、まちづくりのために江戸幕府が人為的につくった地域だった。

ミナミの発祥は芝居小屋が幕府の許可を得て道頓堀に置かれたことが始まり。客が立ち寄る茶屋などが周辺に生まれ、繁華街らしく成長した。

一方、キタは商人が接待に利用する町として栄えた。中之島の蔵屋敷でコメの取引をした後、商売人が接待に使う町がないということでつくられたのが「北の新地」という。

さて、ヒガシやニシはどうだろうか。特に目立った地域がないことについて、大阪21世紀協会の堀井良殷理事長(74)は「船場を起点にすると、東は大阪城で西は大阪湾。繁華街が生まれる余地がなかったのだろう」とみる。

もっとも、まちおこしのキーワードとしてヒガシ、ニシが注目される機会もあった。

1990年発行の京阪電気鉄道の社史には「キタの中心が梅田、ミナミの中心が難波なら、ヒガシの中心は京橋だ」とある。同年4月にはJR京橋駅のある城東区に隣接する鶴見区などで「国際花と緑の博覧会」が開幕。京橋周辺には高層ビルが並ぶ大阪ビジネスパーク(OBP)が誕生、市営地下鉄鶴見緑地線(現長堀鶴見緑地線)が開通した。

社史によれば、ヒガシは京橋だけでなく、天満橋や大阪城、大阪府庁など官公庁を含むエリアを示す。新京橋商店街振興組合(都島区)の事務局担当者は「組合内では京橋をヒガシと呼ぶこともあるのに、なぜ一般に定着しないのでしょうか」と首をかしげる。

ニシはどうか。西区の自営業者らはニシという呼び方を定着させようと、2009年、「大阪ニシ.com」というポータルサイトを立ち上げた。

ただニシが阿波座や弁天町など西区や港区を指すのか、さらに西側の埋め立て地やユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、此花区)などベイエリアまで指すのか、議論の分かれるところだ。埋め立て地がさらに西側に広がる可能性もある。「ポイントとなる繁華街は決められないのです。まちづくりは“発展途上”ですから」(古川さん)

「エリアを大ざっぱに表現すると街の色が消える。細かい地名で呼んでほしい」と訴えるのは、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会のアシスタントプロデューサー、陸奥賢さん(32)だ。

同会が企画する「大阪あそ歩」では、大阪市内で150コースの町歩きツアーを実施している。「船場と一口に言っても『八百屋町』『鳥屋町』など、かつて同業の人々が店を並べていた土地を指すような地域名が住民の間に伝わっている」(陸奥さん)

呼び慣れたキタやミナミ、なじみは薄くてもヒガシやニシの背景にある地域の歴史や人々の思いを知り、奥深い大阪への愛着がぐっと深まった。

(大阪社会部 松浦奈美)

[日本経済新聞大阪夕刊オムニス関西2010年12月1日付]


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