聖諦

「1000年に1度の天災にも耐えられる完全なる防災都市を作ろう!」と半世紀前の日本列島改造論のような、前時代的発想を、官僚と大手デベロッパーは叫ぶ。無茶な話です。ほな、なんですか?30メートル以上に及ぶ防波堤を日本列島全部に建設する気ですか?やめときなはれ。万里の長城やないんやから。

あえて暴言をはきますが、天災はどこかで諦めるしかないんです。諦めることは決して悪いことではないです。お釈迦さんはそれを「聖諦」(しょうてい)と呼びました。生老病死、艱難辛苦、人生の不条理を聖諦する。人は、その上で生きていく勇気が大事なんだとお釈迦さんは説いた。いまは本屋なんかいっても、やたらとポジティブシンキングな啓蒙書が並んでますが、「明るく、前向きに、笑顔でがんばれば、その通りになる!」みたいな能天気な啓蒙書はぼくは眉唾に思ってまして。人生そんなうまいこといきません。挫折、失敗だらけ。だから、ええ言葉やないですか。「聖諦」。いまの日本人に必要なのは「聖諦」なんです。

そもそも官僚や大手デベロッパーがいうような「自然を克服しよう!」「人類のために自然はある!」というのは西洋文明的な考え方です。それがもうあちらこちらで破綻してます。人類の都合のええように、自然を作り変えようとした結果、地球環境破壊で、とんでもないしっぺ返しを食らいつつある。対して、自然に逆らってはいけない。人類は自然に生かされているのだから、とするのが東洋文明。お釈迦さんの「聖諦」もそうした東洋文明を背景にして生まれた言葉であり、思想といえます。

西洋文明を全否定するわけやないです。西洋文明によって、我々は確かに豊かさを手に入れ、政治や文化、経済観念、社会インフラなどを大いに発達させましたから。しかし、西洋文明の弊害もまた甚大にありました。とどまるところを知らない人間の欲望の肯定は、植民地主義や巨大な産業奴隷、格差社会、大量虐殺の近代戦争を産みました。

東洋文明は「調和」を尊びます。西洋文明のようなイケイケ押せ押せの文明推進力、競争力はおそらくないんでしょう。しかし、優しい救済と癒しがあります。これもまた人類が生みだした偉大なる叡智だと思ってます。

近代日本は長らく西洋文明の盲目の崇拝者でした。毒されていました。現代日本もまだその路線でいくのか?もうそろそろ過失、失敗を認めて、価値転換、方向転換するべきではないのか?その端境期にいるような気がしてます。文明のターニングポイントに、いま、日本はいる。

ただ、日本は長く東洋文明の中にあって、恵まれているんです。150年間ほど西洋文明の信奉者としてやってきましたが、それ以前は1500年間に渡って東洋文明国として発展してきました。東洋文明への価値転換は、それほど痛みが伴わないんです。

西洋文明が東洋文明のようにやろうとしても、なかなかやれません。しかし日本は可能かもしれない。幸せな東洋文明と西洋文明の合一がかなうかも知れない。それが成功すれば、新文明のパイオニアになれます。迷走する近代文明の、全世界の模範になれるかも知れない。

今後の日本の、進むべき方向と課題はここにあると思ってます。


2011年 4月 4日
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