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2011 年 7 月 のアーカイブ

イーハトーブの遠景

2011 年 7 月 31 日 Comments off

東北は北上川が抜群に面白い。縄文文化の南進と、弥生文化の北進の衝突地域。その醸成が平泉の黄金信仰、宮沢賢治のイーハトーブの遠景となる。土地の力ですなぁ。


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宮沢賢治『イギリス海岸』

2011 年 7 月 31 日 Comments off

「その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰もそれを見てはゐなかったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧し潰され、埋められ、まもなく又水が被さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません」

宮沢賢治『イギリス海岸』

人間が一人としてこの世に存在していない。まるで世界の終末のような北上川の光景に思いを馳せる。まさに「石っこ賢さん」の面目躍如。この人は人も石も木も水も等価に感じる稀有な詩人でした。ちなみに石巻から北進する北上川が花巻に至ると、そこで猿ヶ石川と合流しますが、この猿ヶ石川の先にあるのが遠野。北上川(宮沢賢治、イーハトーブ)と猿ヶ石川(佐々木喜善、遠野物語)の分岐にあるのがイギリス海岸(賢治はまたこの川のことを「修羅の渚」とも呼んだとか)とすると、これまた面白い。

ちなみに猿ヶ石川(花巻~遠野)に沿って建設されたのが、あの「岩手軽便鉄道」で、ご存知『銀河鉄道の夜』のモデルとなった路線です。

銀河鉄道は「イーハトーブ(イギリス海岸)」から「遠野(カッパ淵、おしらさま、座敷わらし)」への蒸気機関車だったというわけです。現実は小説より奇なりww


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山女庵

2011 年 7 月 31 日 Comments off

天然鳥獣料理(ジビエ)の達人の店『山女庵』さんは、ぜんぶ自分で食料を調達して、ぜんぶ自分で調理します。シカ、すっぽん、きのこ、山菜、うなぎ、川魚など、ぜんぶ自分で仕留める。完全予約制で、予約が入ると、「ほないってきます」と山や川に篭るんです。

イノシシなら飛騨や岐阜の山に入って1週間。猟銃でしとめて、その場でさばいて、川の水で血抜きをする。それを麓にまで担いでボックスにいれて、車で大阪・天下茶屋へ。そしてお客さんにお出しする。ものすごい鮮度で、ほんまにこれがイノシシか?というぐらい、信じられないぐらい、やわらかく、甘く、美味しい。山の味がする。大阪の隠れた名店です。


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女夫善哉

2011 年 7 月 31 日 Comments off

『夫婦善哉』の舞台となった法善寺のぜんざい屋の「夫婦善哉」ですが、かつては「めをとぜんざい」と書いて、また「女夫ぜんざい」とも書きました。

「夫婦」と「女夫」。これ、意味がまったく違います。「夫婦」は夫婦そのまま。「女夫」は女は一人身の独身の女(芸妓、遊女)で、夫は妻や子がある身分の男のことです。

つまり「女夫善哉」は、そういう店やったんですな。千日前でカラクリ芝居やお化け屋敷を見た船場の旦那と馴染みの芸妓が、酒にも厭いて、夜も暮れて、ひっそりと法善寺境内の角の、赤いちょうちん「めをとぜんざい」に引かれて中に入り、静かにぜんさいを食べる。男と女が「さて、これからどこいこか?」と無言で思案する場所。決して、断じて、夫婦でいくような明るいとこではなかった。

オダサクの『夫婦善哉』も、柳吉は妻がいて、蝶子は愛嬌のある芸妓さんの物語。「夫婦」でない、昔ながらの「女夫」の物語なんですな。

女夫が、夫婦のように、生きて、暮らそうとする。その矛盾。そこがオダサク『夫婦善哉』の醍醐味、「笑い」と「哀しみ」です。


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この土(くに)のかたち

2011 年 7 月 30 日 Comments off

大阪が産んだ知の巨人の系譜。小松左京(1931)より一世代ほど前なのが司馬遼太郎(1923)。

司馬さんはエッセイで「この国のかたち」を書きましたが、これ、もともとは「この土(くに)のかたち」だったとか。「土」と書いて「くに」と読ませる。それは少々、ムリがあるのでは?という編集長の意見で没ったんですな。

これ、しかし、ぼくは編集の大失敗だったと思ってます。「土」と「国」ではまったく意味が変わってきますから。「この土のかたち」から「この国のかたち」となってから、明らかに司馬さんのエッセイは失速して、狭量な、凡百の日本論に堕してしまいました。

司馬さんはほんとは「NationではなくStateでもない。Landとしての日本を描きたい」といっていたんです。「国」ではない。「土」の大切さ。われわれ人間は、生命の本然として、「土」を離れては一瞬たりとも、生きていけない。それを司馬さんは警鐘しようとした。

ところが本を売らんがためのタイトル変更に、編集の商業主義に、負けてしまった。こういうとこが司馬さんのアカンとこです。だからでこそ司馬さんは国民的大作家と呼ばれるほど売れたともいえますが…歯がゆい。

実際に司馬さんの警鐘は現実のリスクと化しました。「国」の方針で、放射能で、われわれの命そのものの、「土」を汚してしまった。それは、絶対に、やってはいけないことなんです。百代の過失。後世に言い訳が立たないことをしてしまった。

なんでこんなことになってしまったのか?それは、われわれが「土」を蔑ろにしてきたからです。「国」ではなく、「土」を語らねばならない。国家ではなく、風土を。われわれのアイデンティティは、どこにあるのか?それをロストした民族に、未来はないです。


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竜馬がゆく

2011 年 7 月 30 日 Comments off

http://www.tosainari.jp/

土佐稲荷神社は元土佐藩邸跡。坂本龍馬もやってきましたし、龍馬没後は岩崎弥太郎が海援隊、九十九商会を引き継ぎ、ここで三菱を起業しました。また、この横にある西長堀アパートに住んだのが司馬遼太郎で、ここで司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の連載をスタートさせました。

ある土佐出身の友人に「司馬さん、坂本龍馬を書いてくださいよ」と薦められて、あまり気乗りしなかったようですが、それから幕末関連の史料を読むと、どこにでも龍馬の名前が出てくる。なんだこの人物は?というので気になって本格的に調査したのが「竜馬がゆく」執筆のキッカケとか。

あと「龍馬がゆく」ではなく「竜馬がゆく」であることに注意。この小説はあくまでも「フィクション」。史実と虚構を巧みに織り交ぜている。これ、近松がいうところの「虚実皮膜論」そのもの。まさしく司馬文学は近松の系譜に連なる、大阪文学の本流です。


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織田作之助『大阪の可能性』

2011 年 7 月 30 日 Comments off

「大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬ」

織田作之助『大阪の可能性』


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57年ぶりの復活 堺・出島・住​吉の幻の奇祭 「鯨まつり」

2011 年 7 月 25 日 Comments off



昭和29年(1954)以来に住吉大社に鯨がやってきました。堺・住​吉の幻の奇祭「鯨まつり」です。ほんとは鯨は堺の出島漁港から住吉街道を北上して住吉大社をお参りするのですが、道路使用に関して警察の許可が出ないということで2台のトラックで運ばれて住吉大社の境内で組み立てられました。写真はそのときの様子です。

『万葉集』にも堺・住吉浜の鯨(いさな。勇魚)の歌が登場しますが、1500年前から(おそらくはもっともっと古代から)大阪人は鯨を食べてきました。西洋人は鯨を取っても鯨油を取るぐらいで99パーセントを捨てたそうですが、日本人は肉や骨はモチロンのこと、ヒレ、ヒゲ、舌、胃、内臓、心臓、肝臓、はては睾丸、子宮まで使用(食べたり、加工品を作ったり、肥料にしたり)しました。鯨全体で捨てるところは3箇所しかなかったそうで、鯨の99パーセントを使い切ったとか。また「鯨一頭を仕留めると七浦(7つの漁村)潤う」といわれ、鯨はまさしく天恵でした。

日本人にとって鯨は単なる食べ物ではなく、信仰の対象=「鯨神」だったということです。鯨まつりは、そうした古代からの漁民の信仰を伝えるものです。自然への崇拝、自然の恩恵に感謝する思想と態度。こういう祭礼が堺・住吉で復活したことは、大阪の誇りや思いますよ。


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天神祭・船渡御

2011 年 7 月 25 日 Comments off

本日は天神祭・船渡御。

かつての天神祭の船渡御は現・大阪市西区にある御旅所・松島行宮​へ御渡りしていました。ところが戦後に地下水汲み上げなどによっ​て地盤沈下が起こり、橋桁が下がって船の橋下通り抜けが不可能に​。川下への航行不能となると行宮お渡りができません。1000年​にわたる天神祭・船渡御の大ピンチ!そこで思いついたのが「川下​がアカンのやったら、ほな川上に船いったらええんちゃうか?」「​そりゃええ!それでいきまひょ」ということで、昭和28年(1953)から現​在のように川上に遡上するスタイルになりました。

京都でいえば「祇園祭の巡行コースを突然、変更する」みたいなも​んですか。もしそんなことを京都でしようと思ったら「1000年​の伝統どすえ!」とかいわれて大モメにモメまくりそうですが、​大阪はあっというまに即決でした。1000年の伝統だろうが現実主義で​すぐさま変更。

こういうリアリストなとこが、非常に大阪的です。良きにしろ、悪きにしろ。


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大阪の妖怪譚 日本初の河童 「河伯」

2011 年 7 月 19 日 Comments off

水の都・大阪には、かつて河童がいました。正確には「河伯」といいます。

『日本書紀』の仁徳紀11年(西暦322年)に「河伯」が仁徳天​皇の堤の造成を妨害して、それを防ぐために人身御供として武蔵国​の強頸(こわくび)を沈めて殺した…という記述が出てきます。(※原文「時天皇夢有神 誨之曰 武臟人強頸 河内人茨田連衫子 衫子 此云 於河伯 必獲塞 則覓二人而得之 因以禱於河神」)

「河伯」とは古代は「河神(川神)」を意味したようですが、時代が経るに​連れて神威を失い、やがてイタズラ小僧のような、例の「妖怪の​河童」になるわけです。猿田彦が天狗になったように、神々が時を経て妖怪にな​る事例はいくつもありますが、河伯=河童も同じ系統のようです。

なにはともあれ『日本書紀』に出てくるということで、この「河伯」は「日本の文献上はじめて登場する河童」「日本初の河童」やないでしょうか。(まちづくり関係者の皆さんへ。「水都大阪の妖怪」としてもっと大々的に宣伝したらどないでっしゃろ?千林商店街のマスコットにしてもええ思いまっせ) また河伯(河童)の生贄になった強頸の石碑は大阪市旭区千林の某民家の庭(非公開)に現在も​あります。

夏ということで大阪の妖怪譚でした(笑)


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