大背美流れ

「捕鯨のまち」として世界的に有名な太地町ですが「大背美流れ」の話はあまり知られてません。

明治11年(1879)はものすごい不漁の年で、このままでは年が越せない・・・と焦った鯨方が「背美の子連れは夢にも見るな」という古くからの伝承を無視して子連れの鯨を狙いました。すると鯨は凄まじい勢いで大暴れを始め、鯨方は真冬の朝4時から翌朝10時まで、なんと30時間にも及ぶ激闘を繰り広げ、ようやくしとめることができました。ところが精根尽き果てた鯨方は鯨を曳きながら帰港することができない。それどころかどんどんと船が沖に流されてしまう。生き残るためには仕方ないと泣く泣く鯨を切り離し、しかし、それでも漕ぎ出すことができず、船はすべて漂流。

結果として出港7日目に奇跡的に伊豆に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名。餓死12名、行方不明89名を出すという未曾有の大惨事になりました。当時の太地鯨方は総勢184名で、突如100名以上の鯨方を失った太地は「死の村」と化し、海に向かって母や妻たちが狂ったように幾日も泣き叫んで走り回ったといいます。これが俗にいう「大背美流れ」で、このとき太地の古式捕鯨の伝統は潰えました。

いまの太地の鯨方は大背美流れの犠牲者の子孫たちです。一度、「死の村」と化し、そこから血の滲むような努力をして近代捕鯨のまちとして蘇った。こういう背景を知らないと、太地町の人たちの捕鯨にかける想いは理解できません。


2011年 9月 5日
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