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2011 年 10 月 17 日 のアーカイブ

人類の過去2000年間の経済成長率というのは、平均すると「年率実質0.2パーセント」

2011 年 10 月 17 日 Comments off

人類の過去2000年間の経済成長率というのは、平均すると「年率実質0.2パーセント」とか。とくに西暦1世紀から17世紀ごろまで(産業革命以前)は、ほとんど横ばい状態。

産業革命以前に生まれ、仮に50年の生涯とすると、生まれてから死ぬまでで、ようやく10パーセントほどの経済成長ということになります。これでは、ほとんど自分の暮らしの向上に対して無関心で、なんの変化も感じなかったでしょう。 それほど、ゆっくりと、じっくりと、人類は歩んできた。

要するに現代日本の年率1パーセントの経済成長でも人類の歴史の中では異常な事態だということです。中国のような年率10パーセントの経済成長などは、もはや天変地異、青天の霹靂のレベルです。過去の人類の営みを大きく逸脱している。そんな猛スピードで経済成長する社会は、それ相応のリスクが発生しています。例えばエネルギーの枯渇であったり、自然環境の破壊であったり、コミュニティの崩壊であったり、なにかしらの人類社会を脅かす弊害、危機が巻き起こっている。

いまのぼくらに必要なのは、市場規模を抑制する智恵と勇気です。極論をいえば、ぼくは全世界の市場の成長率は「年率0.2パーセント」でいいと思ってます。それが人類の長年のスタンダードなんですから。なにを急いでいるのか。焦っているのか。

ゆるやかに、たおやかに、しかし、健康的に。歩みは遅くても、健全な人類社会の成長度合いがあるはず。それを尊重したいと思ってます。


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「心中」(心中立)

2011 年 10 月 17 日 Comments off

「心中」(心中立)というのは、江戸時代(とくに元禄時代)の大阪が生んだ究極の都市文化(都市遊戯)です。江戸には心中はありませんでした。なぜ浪華の男女は心中して、江戸の男女は心中しなかったのか?

理由その1。遊女は遊郭に雇われている不自由な身分ですが、じつは江戸時代の「士」「農」「工」「商」の身分制度の中では、大阪の町民たちも「最下級の人間扱い」でした。つまり遊女と町民とは境遇が似ているんです。最下級の社会的存在の遊女と町民が、柵だらけの「憂世」から逃げ出すには、死ぬしかなかった。対して江戸は町民ではなく武士社会ですので、遊女と武士は遊郭で出会っても、決して心中の対象にはなりません。あまりにもお互いの身分制度が違いすぎるわけです。武士には遊女に対する憐憫や哀れみはあっても運命をともにするような共感、共鳴はありませんでした。(伊達藩主は高尾太夫を身請けしましたが、指一本ふれさせないと逆上して惨殺しました。これなんかは武士の遊女に対するスタンスを如実に表しています)

理由その2。元禄時代に入ると、大阪は商品経済、貨幣経済が急速に発展し、人間存在の価値すら「資本化」する考え方が浸透していきました。この世は金次第という「浮世」です。つまり遊女は「一晩いくら」の存在ですが、町民だって「給料なんぼ」という存在です。そして、遊女も町民もちょっと計算してみれば、自分の「生涯賃金」が判明し、自分という存在の「商品価値」がわかってしまうわけです。お金さえあれば遊郭から身請けできる。しかしそんなお金はどこにもありません。一生、馬車馬のように働いても自分の愛する女性を決して身請けできない。そういう冷酷・残酷な現実に直面します。そうなると「真実の恋愛」「自由意思」「人間らしい生き方」を手に入れるためには、もはや自分という全存在価値のすべて・・・つまり「死」でしか支払う(償う)術がなかったわけです。

こういう、どうしようも逃れようのない、ガチガチに固定化された身分制度と、それに反比例するような卓越した商業主義の発達(当時の大阪は日本国中の富の70パーセント以上を占めていました。また大阪は堂島米市場を設置して、これは世界最初の先物取引市場でした。大阪商人は物流経済のみならず、金融証券経済まで見事に扱っていたわけです)から、大阪に心中が流行ったわけです。「封建的な社会制度」(憂世、士農工商)と「近代的な経済観念」(浮世、元禄バブル、天下の台所)という、当時の大阪が置かれたアンバランスな社会的要因が深く作用した。江戸・元禄だからでこそ生まれた、非常に稀有な時代の徒花、大阪文化の結晶。それが心中です。

また江戸時代の大阪は30万都市ですが、そのうち武士はわずか約1500名、つまり99パーセントは町民でした。対して江戸は100万都市ですが、半分以上が武士だったといいます。この人口構造は大阪と江戸という都市文化の性格を決定しました。そして武士という優越な社会的身分を保持して、商業経済の概念にも疎かった江戸には、ついに心中文化は生まれませんでした。それを如実に表しているのが、元禄15年12月14日の江戸に起こった『忠臣蔵』と、そのほぼ4ヶ月後の元禄16年4月7日の大阪で起こった『曽根崎心中』です。江戸は「主君のために死ぬ」という美学を賛美しましたが、大阪は「男と女の色恋沙汰の果ての自殺」という人間ドラマに涙しました。これは江戸には「武士」(封建人)はいたが、「人間」(近代人)がいなかったということです。大阪には「武士」(封建人)はいなかったが、すでに「人間」(近代人)が生まれつつあった。

井原西鶴の『好色一代男』や近松門左衛門の『心中天の網島』といった至高の芸術作品の数々は、元禄大阪が抱え込んだ社会矛盾の中から産まれてきた、大阪人の魂の苦悩の告発であり、封建社会に抹殺された大阪の男と女に対するレクイエム(鎮魂歌)です。江戸の封建社会(建前社会)に対して「金とはなにか?人間とはなにか?男と女とはなにか?愛とはなにか?」という人間の本音を問いかけるものであり、そこには血を吐くような「大阪の反逆」(ヒューマニズム)が通奏低音のように流れています。それがゆえに、いまも激しく、ぼくの心を打ちます。


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