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まつりごと

2011 年 11 月 28 日

ぼくは「イベント的発想」や「イベント的現象」に懐疑的で、なんでもかんでも「イベント化」しつつある社会に危惧を感じてます。イベント化とは端的にいえば「一過性」です。一過性はまた無責任と表裏一体です。

歴史や文化、文明は水平軸の存在です。連綿と続いて、連続して、持続発展していくサスティナブルなものであるのに、それを垂直型に唐突に割り込もうとするのがイベントです。一時的には、社会のある一面を極端に照射しますが、それが社会の土壌に根付くことは非常に難しい。イベントは常に一過性で終わる。だからでこそイベント(出来事)といいます。

例を出します。ぼくは民主主義をある程度、信じています(もう少し正確にいえば可能性を感じています)。しかし民主主義を実現するための「選挙制度」には徹底して懐疑的です。選挙制度は何月何日に立候補者が公示されて、何日間か選挙演説を行って、投票日になると有権者が投票行為を行って、多数票を獲得したものが政治家という立場で民主政治を代行します。どう考えてもこれは一過性の現象で、イベントです。

いま世界の趨勢を決めるであろう重要な選挙といえばアメリカ大統領選挙ですが、そこでは支持基盤向けに大げさなリップサービスや、明らかな利益誘導、大衆迎合のパフォーマンスが行われます。現大統領のオバマ氏は前回の選挙時には「チェンジ!」なんてことを叫んで大統領に当選しましたが、「チェンジ!」なんてのは公約でもなんでもないです。なにもいっていないに等しい。これはただの選挙向けのパフォーマンス。しかし、それに大衆が踊らされて、「雰囲気」や「勢い」で大統領が決まる。これは一歩間違えれば実に恐ろしいことです。(大衆扇動の天才ヒトラーは、ちゃんとドイツ議会の選挙を経て政権を奪取しています。蛇足ですが)

近代の議会制民主国家の多くは、選挙制度というイベントの結果で民主政治を実現しようとしてきました。しかし、それで果たして真の民主政治をどれだけ実現することができたのか?「選挙制度」というイベント的発想や手法は、明らかに民主主義を歪めてしまっている。ぼくが基本的にノンポリであるのは(いや、時折は、じつは「おれほど熱いイデオロギッシュな革命思想の男はおらんな」なんてことを思ったりもするのですがww)、こうした政治システムに対する根底的な疑問があるからです。現在の政治システムはイベント的事象であって、ぼくらが生きる大地(物語、歴史、文化、信仰、自然、血縁、地縁など)に根ざしたものではない、という思いが強くあるからです。

だから、ぼくらはぼくらのやり方で、ほんまもんの民主主義社会を実現しないといけない。その方法論は、おそらくは選挙や任期といった政治システムの改良ではなくて(それは必要なことですが、その前にもっと重要、必要なのは)政治という範疇を凌駕する「まつりごと」の実現だろうとぼくは思っています。(さて、では「まつりごと」とは一体なにか?この話をすると滅茶苦茶長くなるので割愛しますww これが聞きたい人はいっぱいいると思いますが答えは簡単。あなたのまちの祭りに参加してみるのが一番よろしい)ぼくはいま真剣、必死になって「まつりごと」を実現したいと思ってます。まじめに。そして多少の遊び心をもって。

なんでもかんでもイベント化する現象は今後も続いていくようです。既存社会が閉塞的状況に陥っているので、それをイベント的手法で誤魔化そうとする人々があまりに多いからです。しかしイベント的手法で社会を変革することは不可能で、むしろ事態は悪化していく一方でしょう。イベント(選挙制度)に期待してはダメなんです。ぼくらのライフは、誠実に、一歩一歩、日々を積み重ねていくものだから。親から子に孫に伝わる、遺伝子のような、「まつりごと」を残さないと。

大阪市長選挙、府知事選挙の投票日に記す。


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