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福沢諭吉『福翁自伝』より

2011 年 12 月 20 日

「大阪はまるで町人の世界で、何も武家というものはない。従って砲術をやろうという者もなければ原書を取り調べようという者もありはせぬ。それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない」

「自分の身の行末のみを考えて、どうしたらば立身ができるだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか、立派な家に住むことができるだろうか、どうすればうまいものを食い、いい着物を着られるだろうかというようなことにばかり心を引かれて、あくせく勉強するということでは、けっして真の勉強はできないだろうと思う」

「一歩進めて当時の書生のこころの底を叩いてみれば、自ずからなる楽しみがある。これを一言すれば、西洋の日進の者を読むことは日本国中の人にできないことだ、自分たちの仲間に限ってこのようなことができる」

福沢諭吉『福翁自伝』より

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大阪は確かに商業都市でしたが、だからといって大阪人が拝金主義者か?というと、それは明確に違います。というのも、お金というのは抽象的に思えて、じつは非常にわかりやすい。数字ですから。100万円よりも1000万円のほうが良い。しかし、では、お金があればいいのか?お金で人生すべてが割り切れるか?というとそうではないわけです。生きるということはもっと複雑怪奇で、金というロジックで割り切れない物事が往々にしてある。大阪は商業が発達しましたが、金の世界にまみれているからでこそ、誰よりも早く「資本の限界性」にも気づくわけです。

「大豪商の淀屋、住友、鴻池でもままならぬことが人生にはある」「人生の本当の価値、醍醐味は、金銭に絡んだ世界にはない」 そう考えて、むしろ一銭の金にもならないことに、人生を費やす人が数多く出てきてもおかしくない。むしろ大部分の大阪人は、金儲けよりも、遊び、享楽、趣味、道楽などに夢中になりました。実際に木村蒹葭堂は石ころ集めに夢中になり、山片蟠桃は無神論『夢の代』を書きました。これ、一銭の金にもなっとりません。

当時の侍は儒教を学びました。これは侍階級の規律、道徳のためで、立身出世の狙いもありました。じつは侍のほうが、功利的なんですな。ところが大阪の商人階級のあいだで流行ったのは、例えば「天文学」と「蘭学」です。星を見ても、まるでご飯の種にならない。また「国際社会の中で英語を習う」のではないです。「鎖国状態なのにオランダ語を学んだ」から凄い。オランダ語の習得に、何の意義も意味もない。ただただ、文字や言葉の響きが面白かっただけ。

大阪の町衆が寄付を募って作った私塾「懐徳堂」は、世間からは「鵺学」と呼ばれました。鵺は伝説上の怪獣で頭は猿、足は虎、尾は蛇。要するに「意味不明な学問」をやる場所として有名だったわけです。それが喜ばれた。尊ばれた。成立した。学問するということが、遊びで、趣味で、道楽だったわけです。

大阪人が拝金主義者というのは大間違いで、それは元禄バブルの時代で終わりました(象徴的事件が淀屋の闕所事件です)。それを通り越したところに、大阪文化の「粋」(すい)があったわけで、それを読み取らないと、大阪という都市の懐の深さ、凄さはわかりません。冒頭の福沢諭吉の自伝『福翁自伝』は、緒方洪庵の適塾時代を回想したものですが、これが「粋」の文化の真髄ではないか、とぼくは思ってます。目的なしの勉強。ナンセンス。そこに賭ける、意味不明なまでの情熱。


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