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都市とはなにか?都市にはなにが必要なのか?もういちど我々は深く考察する時代に来てます

2011 年 12 月 22 日

江戸は八百八町。京都は八百八寺。浪華は八百八橋。

「橋が多い」というのは、「橋の下」に屯するスペース(アジール)が数多くあったという意味でもあります。「天下の富の七分は浪華にあり」と謳われた商業金融都市の大坂。田舎から一攫千金を狙って上方にやってきて、しかし夢破れて山河ならぬ橋の下あり。世間に顔向けできない身となっても、橋の下に飛び込めば、なんとか生きていくことができた。官吏も、どれほどの犯罪者、悪党、凶悪犯、政治犯でも、橋の下までは追いません。実際、幕末の頃、長州藩の桂小五郎は新撰組に追われると、命からがら橋の下に逃げ込んだ。こうすると、さすがの新撰組も手が出せない。橋の下は、橋の下のルール・・・無縁者たちのルールがあったんですな。

大坂ではこうした空間を「垣外」(かいと)といいました。この垣外の人たちは、奉行所に治外法権を認められ、処刑の執行人や墓守り、犯罪者の搜索といった仕事もありました。犯罪者のやり方は、犯罪者がいちばんよう知ってるというわけです(じつに理にかなってますww)。これは奉行所の手下のようですが、実際は犯罪者の身分を預かるに近い。垣外の長吏は、垣外のことは隅々まで知ってますから、逃げ込んで来た犯罪者なんて、すぐさま捕らえることができます。そこで「おれの部下になれ。そうでなければ奉行所に引き渡す」というわけです。奉行所に引き渡されると処罰されますからたいていは手下になる。手下になると、垣外の長吏は奉行所に「そんな男は見つからない」といって済ませてしまう。そこから先は無縁者のルールの中で生きていく(もちろん厳しい世界だったでしょう。ルール破りは即、死を意味するような)。

都市には多種多様な人間が流入します。都市の第一の条件とは、許容性、多様性であり、人間の流入に他ならない(先祖伝来、住んでる人間が変わらないのが田舎です。奈良、京都が「巨大な田舎」といわれる由縁はそこです)。秀才、天才、大天才もきますが、訳わからん人間も大勢やってくる。田舎でヘマをすると、先祖伝来の土地に住めなくなると、出ていく先は都市しかないんです。犯罪者だって大勢やってくる。それをどれほど受け入れることができるか?(=どれほどアジールがあるか?)というのが都市のスケール、キャパシティ、品格の証明になるわけです。事実、NYは世界の超一流の都市ですが、超一流の犯罪都市でもあります。ロンドン、パリ、上海、香港、シンガポール・・・世界に冠たる一流の都市は、またそれだけ、闇も深い。

橋が多い都市・大坂は、橋の下=アジールが沢山ありました。こういう都市の背景から淀屋、西鶴、近松、蕪村、心中立、粋(すい)の文化、鵺学、『夢の代』なんてのがワンサカ出てくる。なんと芳醇で豊かであることか。対して、アジールがまったくない近代都市が生みだすものといえば、結局、高速道路とコンビニとファーストフードとファミレスに過ぎない。ル・コルビュジエの『輝く都市』構想の、なんと陳腐で、非人間的で、つまらないことか!

都市とはなにか?都市にはなにが必要なのか?もういちど我々は深く考察する時代に来てます。


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