オリンピック

元々、古代のオリンピックはオリンピア信仰の祭典でした。そこでは雷神ゼウスや太陽神アポロン、海神ポセイドンなどのギリシャ信仰の神々への感謝と祈りが捧げられた。

「雷」や「太陽」や「海」といった身近な、しかし人力では到底コントロールできない自然現象を統べる「超自然」の存在として人格神を崇め奉るという古代ギリシャ信仰は、人類の思想哲学史から俯瞰すれば素朴で原始的な信仰体系だといえます。神の姿形は人間ですが、本質的な部分では「自然賛美」で、これは例えば「太陽神の使いが鳥だ」とか「雨を掌るのは蛇である」とか、そういった全人類に共通する「ネイティブ・ウィズダム」の信仰体系に近しいわけです。つまり「ネイティブ・ウィズダム」とギリシャ信仰の差は超自然の具現化が人間か?動物か?という差ともいえます。いや人間だって動物ですから、そういう意味でいえば差異はほとんど見受けられない。

ただ、太陽や海や雷といった超自然的な神々の具現を人間的な偶像として捉えなおすことで、この信仰体系は非常に面白い、ユニークな傾向を兼ね備えることになりました。つまり人間(自然)を越えた超人間(超自然)=「肉体賛美」という思想の出現です。こういう思想は古代インド(密教、仏教)、古代中国(儒教、道教)にはなく、キリスト教なんてのも肉体を卑下する信仰体系でしたから(十字架に磔刑にされるイエス・キリストの貧弱な身体は古代ギリシャ人なら鼻で笑いますな)、こうした信仰体系を背景にして「超人間たちの聖なる戦い」としての古代オリンピックが登場してきたわけです。だから古代オリンピックはギリシャ民族のみに許された神聖なる儀式で、他民族や奴隷なんかは参加できませんでした。たまに混同する人がいますが、他民族や奴隷をライオンと戦わせたり、キリスト教徒の公開処刑といった残虐な行為をやっていたのは古代ローマのコロッセオ(円形闘技場)で、これは古代ローマ市民の娯楽(!?)で宗教儀礼のオリンピックとは全然違うわけです。ちなみに肉体を卑下するキリスト教がローマ帝国の国教になったときに古代ギリシャ信仰に裏づけされた古代オリンピックは、その1000年以上の長きに渡る伝統と歴史を否定されて「異教徒の祭典」と指弾されて、この地球上から滅びました。

19世紀末にフランスの教育者クーベルタン男爵の提唱によって始められた近代オリンピック(アテネ・オリンピック 1896年~)は、古代ギリシャ信仰のような「超自然の神々への祈りや感謝」なんて思想はまったくありません。そこにあるのはナショナリズムとキャピタリズムの祭典。オリンピック選手は相手に勝利すると表彰台に上って金・銀・銅のメダルをかけられますが、その瞬間、国歌が流れ、国旗が高々と掲揚される。またあらゆる選手はスポンサー企業の公告塔にもなってます。これはオリンピック(オリンピアの宮殿。そこはゼウスの宮殿です)の名前を借りてますが、まったくもって別のもので、これを「オリンピック」と名づけることは、ぼくは古代ギリシャ信仰への冒涜ではないか?と思えるんですな。

もうちょっと近代オリンピックは、古代オリンピックに敬意を払ってもいい思います。それが出来ないなら、オリンピックの名前は、外したほうがええ思います。「ナショナリズムとキャピタリズムの祭典」はあってもええと思いますけど(ぼくはあまりそんなのに興味ないですが・・・)それを「オリンピック」と称することへの違和感。古代オリンピック(古代ギリシャ文明)への強烈な憧憬があるだけに、ぼくは近代オリンピックをなかなか素直に楽しめないですな。


2012年 8月 4日
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