「外観光」(アウタースペースの旅)と「内観光」(インナースペースの旅)

「観光地化」という言葉は手垢がつきすぎていて、どこか否定的なイメージすらあります。「ヒトが増える」「うるさい」「車が増えて渋滞になる」「ゴミが増える」「業者が入ってきて、ふるさとが食い物にされる」「地元民の中でも勝ち組、負け組が出てきていがみ合う」・・・そういう風に考える人も非常に多かったりします。「観光」そのものは悪くないんです。しかし観光が資本と結びつき、金儲けの道具となり、「観光産業」というものになったとき、残念ながら一挙に俗なものになってしまう。

「観光」という言葉自体は『易経』に出てくる「観国之光利用賓于王」(国の光を観る。王に賓たるに用いるに利し)がルーツです。「易経」はいってみれば「占い(易)」の聖典ですが、古代中国人にとって、「占い(易)」とは人智を超えた森羅万象の理を表すシステムであり、宇宙そのものの設計図でした。原始社会は荒ぶる自然の脅威にさらされていた。占いによって人間はようやく自然の恐怖に打ち勝ち、社会秩序を獲得したわけで、それは非常に宗教的であり、哲学的であり、思想的であり、形而上学的なものです。だから『易経』で「王は世界(国)の光を観ることが大切だ」と説かれてますが、この「光」というのは、外界に存在する、目に見えてわかるような単純明快な、即物的な光ではなくて、じつは自分という存在の内的世界の中にある光と考えるほうが、より書物が伝えようとしている実感に近いとぼくは思ってます。薔薇は美しいですが、美しいと思える人間の心こそが美しいわけで、「光を観る」ということも、世界がどれだけ混沌としていても、その中から光を観ることが出来る眼を磨け、といっているように思うんですな。

要するに観光にはどうも「外観光」(アウタースペースの旅)と「内観光」(インナースペースの旅)というのがあるのでは?と最近考えてまして。そして前者の「観光産業」はいってみれば「外観光」的な動きであり、後者の「易経の観光」とは「内観光」的で、いま、本当に時代に必要とされているのは「内観光」だろうと。外的世界に出るにあたって、まず自分のアイデンティティを模索する・・・つまり自分の内的世界を観光することが必要で。それはつまり自分のまちやふるさとを逍遙するということです。そこから光や闇を観る。ぼくは大阪人にこそ、大阪のまちを知ってほしいんですな。かつてやっていた「大阪あそ歩」も、現在やっている「大阪七墓巡り復活プロジェクト」や「クリエイティブ・ツーリズム大阪」も、みんな同じような意図でやってます。内観光の重要性と可能性。まず大阪人こそが、大阪のまちを歩いてほしい。

■大阪七墓巡り復活プロジェクト
http://www.facebook.com/osaka7haka

■クリエイティブ・ツーリズム大阪
http://www.facebook.com/1permilCreativeShare


2013年 7月 26日
タグ:
« »
コメントは終了しています。