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「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の飛田(鳶田、太子)墓地編で使用する予定だったレジュメ

2013 年 8 月 18 日

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「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の飛田(鳶田、太子)墓地編で使用する予定だったレジュメ。これはしかし12時間にも及ぶ七墓巡礼のあとで披露困憊だったので、結局、使用できませんでしたw 大阪七墓巡りの資料として公開しておきます。

■8/15(木)20時よりココルームにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑦飛田編】「詩業家・上田假奈代による詩のワークショップ」と飛田まち歩き
http://www.facebook.com/events/399655600143585/

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【現在進行形の無縁大慈悲。弱法師たちは今日も狂う】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 鳶田墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~

●太子墓地(鳶田墓地)=聖徳太子起源の大阪最古級の墓地   
聖徳太子とはなにものか?皇族(神道の祭祀王)でありながら仏教(外来思想)に帰依した→「神仏習合」。また、ちゃんとした「修行」などをした形跡はないが「夢殿」に篭ったという伝承がある。さらに「當麻寺」を作っている→「大麻寺」? 宣教師はアヘンを用いて清の信者を獲得した。もしかしたら太子の夢殿と當麻寺の関係性は…?

●弱法師   
日本最古の宗教地であり、「西方浄土」(浄土教)の聖地となった大阪。四天王寺西門下(現在の釜ヶ崎界隈)には救済(お布施)を求めて日本全国各地から「弱法師」(社会的弱者)が集まった。とくに有名な弱法師として河内国の俊徳丸がいる。讒言により我が子「俊徳丸」を追い出した河内国高安の左衛門尉通俊。自分の罪滅ぼしに天王寺で七日間の施行を行っていると、盲目の乞食「弱法師」がやってくる。弱法師は天王寺の有難さを語ることでお布施を頂いていたが、よく見ると我が子・俊徳丸であった。あまりのみすぼらしい姿に道俊は名乗りを上げることがでいない。夜になってから密かに会いに行き、道俊は弱法師に日想観を説き、その有難さに弱法師は狂う。

「日想観なれば曇りも波の。淡路絵島須磨明石。紀の海までも見えたり見えたり。満目青山は心にあり。おう。見るぞとよ見るぞとよ。いまは狂い候わじ。今よりはさらに狂わじ」「今ははや夜も更け人も静まりぬ。いかなる人の果やらんその名を名のり給えや」「思いよらずや誰なれば。わが古を問い給う。高安の里なりし.俊徳丸が果なり」「さては嬉しやこれこそは。父高安の通俊よ」「そも通俊はわが父の。そのおん声と聞くよりも。胸うち騒ぎあきれつつ」「こわいかにとて」「俊徳は」「親ながら恥かしとて。あらぬ方へ逃げ行けば。父は追いつき手を取りて。何をか包む難波寺の。鐘の声も夜紛れに。明けぬさきにと誘い。高安の里に帰りけり。高安の里に帰りけり」

●大坂四ヶ所 転び切支丹(棄教者)が首切り役人となった   
「垣外」とも言われ天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所の居住地のこと。この間に上下関係はなかった。垣外は多数のキリスト教信者が住んでいたが、その殆どが寛永8年(1631)の弾圧で棄教者(転び)となったもの。改宗を拒んだものはマカオなどへ追放されている。

「迫害は、北部、及び南部の諸州で、多數の殉教者を出してゐた、しかし、それは、天領、殊に京都、伏見、堺、大坂の如き大都市では、更に全般的で、更に殘酷であつた。熱心なキリシタン達は、執拗に捜し出され、自白させんがために、拷問にかけられた。ために、若干の人々は、生命を棄てて、靈魂を救つた、或る者は、不幸にも、棄教して、その精神的の父を裏切つた。この精神的の父に對し、暴君が死刑を科したのは、彼等の體に對してではなくて、靈魂に對してであつた。乞食や癩病人に至るまで、何でもないキリシタン達が、例外なく追放された」
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』

●大塩平八郎の乱   
天保の大飢饉で飢えた大坂庶民を救うため、大坂奉行所の名門与力でありながら、「救民」の旗印を掲げて決起した。その大塩の爆死した死体は塩漬けにされ、鳶田の仕置場で磔刑にされている。釜ヶ崎界隈の民衆に、大塩の無残な姿を見せつける必要があったのだろう。また1961年から度々、釜ヶ崎では暴動が起きる。2008年にも第24次暴動が起きた。

●釜ヶ崎夏祭   
1972年に第1回が開催。毎年8月15日には亡くなった日雇労働者らを慰霊する祭壇が用意され、追悼式が行われる。

●阿倍野墓地   
明治7(1874)年に完成。千日前、小橋、飛田にあった墓地などが移転された。


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