堺探検クラブ「湊まち歩きマップ」イラストと解説文

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①南海本線「湊駅」
明治30年(1897)10月に南海電鉄によって設置されました。出島浜に近く、戦前は海水浴客や大浜水上飛行場などで大いに賑わいました。出島浜の歴史は非常に古く、鎌倉時代に沖合に迷い込んだ鯨の捕獲に失敗して、漁師達が慰め合ったことがきっかけという「鯨まつり」が伝えられています。「くじらとろとて網まですいて くじら熊野へみなかえる 沖に見えるはくじらの山か おかへのぼせば黄金山」と鯨音頭を歌いながら、竹組みで作った模型の鯨を担いで出島浜から住吉大社まで練り歩くというもので、昭和29年(1954)の祭礼時は約27メートルの巨大鯨が奉納されました。

②与謝野晶子歌碑(湊駅前公園内)
湊駅前東通商店会が主体となって歌碑を建立しました。「ちぬの海 いさな寄るなる をちかたは ひねもす霞む 海恋しけれ」「夕されば 浜の出島の うたひめの 島田にまじり かはほりぞ飛ぶ」と湊、出島浜ゆかりの与謝野晶子の歌二首が刻まれています。

③旧堺紡績会社 変電所
明治29年(1896)、堺紡績会社の紡績工場が竣工して操業を開始。のちに阿波紡績、福島紡績と合併しましたが、紡績業界の斜陽化で昭和38年(1963)に木工工場となり、昭和51年(1976)にそれも移転しました。ノコギリ屋根の煉瓦造りの美しい工場群でしたが取り壊され、変電所の窓と外壁の一部を切り取ったモニュメントが保存されています。

④堺の穴子
かつて堺は「穴子屋筋」という通りがあったほど穴子漁が盛んで、「下関のふぐ 堺の穴子」と称される穴子の名産地でした。昭和3年(1928)の第5回内国勧業博覧会のさいに発行された旅行ガイドブック「堺市案内記」にも堺の名産として芥子餅、くるみ餅などと並んで「あなご料理」が記載されています。深清鮓さんはその伝統をいまに伝えてくれる老舗の穴子寿司専門店です。

⑤土居川
中世・堺は日本一の国際貿易港として繁栄し、堺の商人たちは戦国の争乱に巻き込まれないように環濠を作って自治都市を築きました。その後、秀吉によって環濠は埋め立てられ、大坂夏の陣の戦乱で堺は焼け野原となりますが、徳川幕府はすぐに堺の町を復興し、環濠も復活させました。これが現在の土居川で、土堤防(土居、土塁)を築いたことが川名の由来といわれています。マボラ、セスジボラ、メナダといった魚や、コサギ、ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、アオサギといった鳥の飛来も確認されています。

⑥紀州街道
大坂から住吉大社、堺を経て和歌山までを結ぶ街道です。古代には白砂青松の美しい海岸沿いにあって「岸の辺の道」と呼ばれ、江戸時代には紀州藩の参勤交代の街道としても栄えました。昭和48年(1973)には司馬遼太郎が「街道をゆく」の取材で紀州街道を訪れ、山崎理髪店(現・山崎たばこ店)の店主に船待神社を案内されています。司馬遼太郎は「中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っている」と堺のことを評しています。

⑦船待神社
かつては河内国大鳥群塩穴郷にあって天穂日命(土師氏・菅原氏の祖神)を祀る塩穴天神社と呼ばれ、延喜元年(901)1月には菅原道真公が太宰府へ下る船を待つあいだに参拝したといいます。その後、長保3年(1001)に管公の子孫・菅原朝臣為紀が管公を合祀し、船待天神社と改め、寛治年間(1087〜1093)に塩穴郷より当地に遷りました。管公お手植えの古松がありましたが昭和40年頃に枯死してしまい、その古木の下から発見されたのが腰掛石です。境内には明治40年(1907)に湊村字中筋にご鎮座していた村社・瘡神社も合祀されています。

⑧湊焼
奈良時代の僧・行基が熊取東部の丘陵地の白土を運び、湊の人に焼きものを教えたことが起源という伝説があり、また天正年間(1573~1593)に千利休の注文で点茶用の砂鍋を造り、その見事さに世人の賞賛を受けたと伝わります。しかし通説では楽焼の樂吉左衛門の弟・吉兵衛が、一子相伝の秘法を盗んだので勘当されて京都から来堺し、瀬戸物商の山本吉右衛門がパトロンとなって焼きものを始めたことが創始とされています。「本朝陶器攷證」によれば慶安年間(1648~1652)の話で、その後、吉兵衛は帰京して吉右衛門が焼きものを始め、18世紀末には交趾(ベトナム)風の釉薬が伝来して5代吉右衛門のときに「湊焼」を名乗り、15代吉右衛門は「火鉢屋吉右衛門」と呼ばれ、堺で知らぬ者がいないほどの名陶工でした。また明治に入ると山本家の職人頭が津塩吉右衛門と名乗って紀州街道筋に分家して、その住吉人形や南蛮人形、喜々猿(昭和55年・申年の年賀状切手の図案に採用されて日本全国に紹介されました)などは高く評価されています。また大鳥大社には明治13年(1880)奉納の「湊陶工吉右衛門」銘の陶額が、瘡神社に明治16年(1883)奉納の「能良遺法土師湊狂良」銘の陶額が現存しています。

⑨大内義弘供養塔(本行寺内)
大内義弘(1356~1400)は周防の守護大名でしたが、1371年に九州探題・今川貞世に協力して九州の南朝勢を討伐、1391年に山名氏が足利義満に叛乱した明徳の乱を鎮圧、1392年には南北朝合一に尽力して、和泉・紀伊・周防・長門・石見・豊前の6カ国を領しました。また李氏朝鮮や明との私貿易でも富を得ましたが、その勢力を恐れた義満と次第に対立。1399年、義満の挑発的な上洛命令を拒否して、鎌倉公方の足利満兼と通じて軍勢5000で堺に籠城。しかし関東管領・上杉憲定に説得されて満兼が挙兵を中止すると、義弘は孤立無援となり、幕府軍3万に攻められて壮絶な戦死を遂げました。俗にいう「応永の乱」で「応永記」という軍記にもなっていますが、のちに石川淳が応永の乱を舞台に「一露」という短編小説を書いています。

⑩瘡神神社跡
敏達14年(589)、瘡疾が流行したさいに、村民が医薬神・少彦名神を祀って祈願したところ、数多くの患者が治癒しました。霊験あらたかな神社として江戸時代には茶店が並び、門前市が出来て、参詣人が列を成したといいます。また瘡神社には牛と馬の2種類の絵馬があって、牛は生草を喰うので祈願時に牛の絵馬を、馬は枯草を食うのでお礼参り時に馬の絵馬を納める習慣がありました。瘡(くさ)を草(くさ)ともじったわけです。明治40年(1907)に鎮座していた湊村中筋から船待神社へと合祀されました。

⑪片桐棲龍堂(内部非公開)
創業400有余年の伝統老舗漢方薬局で、敷地内には江戸時代の伝統的建築物が数多くあり、主屋・東ノ蔵・中ノ蔵・摩利支尊天神社廟・西ノ蔵・洗い場・煉瓦塀は登録有形文化財となっています。また西ノ蔵は日本では数少ない漢方医薬専門資料館として国内外の専門家から高い評価を得ています。※内部非公開で、現在も店舗として使用されていますので、外観からの見学のみでお願いします。

⑫風車
明治以降、諸外国の輸入綿によって泉州の綿業は打撃をうけ、湊から石津にかけてはミツバ、ホウレンソウ、キクナといった野菜栽培を始めましたが、地域一帯は砂質土壌で大量の灌漑用水が必要でした。そこで大正期に地元の和田忠雄氏、高野長次郎氏、中尾正治氏らが、オランダ風車をヒントに、浜風を動力とした風車による地下水の組上げを考案。以後「堺の風車」は急速に普及して、1965年頃には400 基近くの風車が林立しますが、高度経済成長期に入ると農業地縮小やスプリンクラー導入などで風車灌漑は衰退し、現在では消滅してしまいました。新湊小学校前にある風車はレプリカで、湊の歴史文化を伝えるものとして保存されています。

⑬塩穴通
正式には堺市道「出島旭ヶ丘線」ですが、東に進むと「塩穴交差点」(大阪府道61号堺かつらぎ線)に出ます。承平年間 (931~938) に源順が編纂した辞書「和名類聚抄」にも「之保乃阿奈」(シオノアナ)という記述がありますが、湊地域はかつては和泉国大鳥郡塩穴郷に属していました。和銅元年(708)には元明天皇の勅命で塩穴寺が建立されたという記録もあります。また寛徳2年(1045)の藤原定頼の歌集「権中納言定頼卿集」には「さか井と伝所に しほゆあみに おはしけるに」とあって、当時の堺は万病に効く塩湯浴の名所として知られていました。現在でも湊には湊潮湯(関西唯一の海水のお風呂屋さん)などがあります。

⑭天下一御壷塩師堺湊伊織
天和3年(1683)に衣笠一閑が著した堺地誌「堺鑑」によれば、天文年間(1532~1554)に三十六歌仙のひとり・猿丸太夫の子孫という藤太郎(藤太夫説もあり)が、京都上鴨の畠枝村から湊に住みついて紀州雑賀塩を土壺に入れて焼き直して諸国に販売しました。承応3年(1654)には堺政所の石河利正土佐守が女院御所(東福門院、徳川秀忠五女、明正天皇生母)に湊壺塩を献上して、その繊細な味を褒め称えられ、「天下一」の美号を許されました。また延宝7年(1679)にも関白・鷹司殿下より美名「伊織」を賜りました。船待神社に壺塩屋が寄進した菅原道真公の掛軸があって、その裏に願文と壺焼屋の系図があり、伊織は9代目壺塩師ということがわかっています。湊壷塩は北は仙台城から南は鹿児島の鶴丸城でも発見され、また長崎・出島のオランダ商館にも持ち込まれていたという記録があります。


2013年 10月 27日
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