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京都のまち歩きは歴史であり、史跡案内。大阪のまち歩きは物語であり、語りの芸です。

2013 年 10 月 27 日

京都のまち歩きは「語り」を必要としません。「現物」が残っているからくどくど説明するより「まま。どうぞ。ごらんください」で終わってしまいます。そういう意味では大阪もんのぼくとしては、じつに呆気なく、物足りなく、味気ないんですな。大阪のまち歩きは「現物」がありません。戦災で燃えたり、戦後の乱開発で破壊しつくしましたから。「もとはお寺でしたが、いまはラブホテルです」のようなことが大阪の場合、往々にしてあるので「まま。どうぞ。ごらんください」なんてことがいえないw そうなると「かつてあった何か」というのは「語り」でしか表現せざるをえないんですな。

「語り」は「騙り」でもあって、結局、嘘が入ります。見たことないんですから、どうしてもそうなりますわな。しかし、この嘘が重要で。「講釈師、見てきたように嘘をつき」の、あのいかがわしさと、面白さが、大阪のまち歩きの醍醐味です。「虚実の皮膜にこそ美が宿る」といったのは近松門左衛門。偉大なる近松に倣って「真実3分に嘘8分。足すと11分で数が合わない」ってのがぼくのまち歩きですw 実際、大阪七墓巡りとかいってますが、いまは墓残ってませんから。まちなかですから。そこを「大阪七墓巡りです」と称して歩くのは、これはかなりトリッキーで、反則技で、高等すぎる芸ですw

京都のまち歩きは歴史であり、史跡案内。大阪のまち歩きは物語であり、語りの芸です。京都は知識を教えればいい。大阪は虚実を語ればいい。まち歩き=コミュニティ・ツーリズムとは、そのまち(コミュニティ)独自のツーリズムであるべきであって、だから、それでよろしい。


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