「住み開き直り」

「住み開き」は「住み開き直り」でないと成立しないのではないか?という気がしています。「住む」と「開く」を一緒にする事は簡単なように見えて、実は非常に難しい。これが出来る人はすでに普段から「公共」というのを弁えて生きている人です。そんな人は別に普段が公共的なライフスタイルだから、あえて「住み開き」なんてことをしなくてもいい人でしょう。生きていることで開いている「生き開き」であるわけです。しかし大部分の人はそうではない。近代以前はそうではなかったかも知れませんが「個」というものが確立した近代以降となると「住む」と「開く」は基本的には相反する条件となります。結局どこかがでムリが生じて「開き直り」で住んだり、開いたりすることでしか成立しえないことになる。ちなみに劇作家の岸井大輔さんは「住み開きは大阪では成立するが、東京ではなかなか難しい」といいます。ぼくは東京の住み開きの事例はほぼ知りませんが、大阪と東京の都市の公共性や歴史性を考える(このへんのことは以前に「東京の条件と大阪の条件と」で書きました)と、そう言わはるのも判る気がするわけです。

そういう意味で「住み開き」も「DJ話芸」もアサダワタルくんの「イリュージョン編集」といえます。編集した結果、普通はスマートになったり、楽になったり、スッキリしたり、便利になったり、効率がよくなったりするもんなんですが(実はこの手の編集の達人は岩淵拓郎さんです。このひとは「手を抜く天才」でもありますww)、アサダくんの編集はそうではなくて全く真逆のベクトルで、編集した結果、よりややこしく、より複雑で、よりカオスモスで、より意味不明で、よりイリュージョンになるんですな。これが彼の日常編集家としての天才性であり、アーティスト性であるといえます。ヘンな男やでww

※ちなみに、だから「住み開き」をやめようではなくて、大変だが、それだからでこそ、「住み開き直り」を覚悟して「住み開」かないといけないということです。住み開きは言葉としては簡単ですが、行為として決して簡単ではないということ。イリュージョンですから。でも「住み開き」をやることは素晴らしい価値がある。あなたの中の「公共」を育てるという意味で。


2014年 2月 9日
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