女の義理

osaka_kitashinchi02

近松門左衛門の最高傑作『心中天の網島』。紙治の兄・粉屋孫右衛門が変装して武士にばけて小春を詮議し、弟の紙治を説教するのも紙治一家のため。紙治の恋敵の太兵衛も単に小春が好きなだけ。おさんの父・五左衛門が娘のおさんを実家に引き取るのも娘のため。おさんが夫・紙治と手を切ってくれと小春に手紙を送るのは子供たちのため。小春は「切るに切られぬお人なれど」といいながらも小春のために、「女の義理」で紙治と縁を切ろうとする。要するに誰も悪い人間などいない。あえていえば、女房もちの紙治が遊郭に通って小春と馴染みになったことが悪いが、当時は遊郭通いは商人のステータス。遊郭に通うことは当然の時代で、ただ、紙治は小春に本気で惚れてしまった。これは遊郭のルール違反だが、「本気で惚れてしまったこと」が悪いとすれば、これはもはや「人間として生まれてきたことが悪い」というのに等しい。惚れるということは、熱病のようなもので、もはや本人にもどうしようもないことであるから。不可抗力ではないか。

誰も彼もが精一杯、自分のできることをしようとし、動き回り、誰もまちがっていないのに、結局、破綻して、心中というカタストロフィを迎える。またこれは厳密にいえば心中ではない。紙治と小春は道行のすがら髪を切って出家する。さらに死に場所を変え、死に方まで変えた。小春は心中しようという紙治を拒否して、最期までおさんへの「女の義理」を突き通す。心中しようにも、じつは心中できなかった。男女の同時自殺(ダブルス―サイド)に過ぎない。しかしそれを近松は「心中天の網島」と書く。一体、誰と誰の心中なのか?これは要するに遊女・小春と妻・おさんの心中を指す。心中というのは死ぬことではなくて、心の中に誓いを立てて、それを全うすること(心中立て)をいう。おさんと小春は手紙のやり取りで確かに心中立てを行った。つまり「女の義理」の結果、小春は死んだ。勝手に紙治は、その小春に着いていったに過ぎない。紙治の悲哀はここに由来する。どうしても憎めない。

恐ろしいのは近松。心中の悲劇やら喜劇やらファルスやらを超えて、ついに人間の業を書ききった。その舞台が北の新地。いまも現役で男と女のまちであり続けている。しかしこのまちのほとんどの人が、近松や「心中天の網島」を知らない。それでいながら現代版の紙治と小春を再生産し続けている。大阪のこういう飄々としたところが、これまた恐ろしい。


2014年 3月 4日
タグ:
コメントは終了しています。