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■芝右衛門狸考

2014 年 9 月 29 日

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ジョン・ムーアさん、林くんと「AAT(淡路島×アート×タヌキ)トークセッション」をしてきました。ありがとうございました^^ じつに刺激的なトークセッションで。個人的にもいろいろと収穫はありまして、ちょっと、まとめてみました。

■芝右衛門狸考
古神道もそうだったんでしょうが、アイヌや琉球、ケルト、インディアンといった古代人、先住民族たちの「ネイティブ・ウィズダム」(自然の叡智)には「人間=動物=神」というじつにフラットな横軸の死生観が展開している。「縦軸」ではなくて「横軸」であることが重要で。「あの世」(彼岸)と「この世」(此岸)というのは、たった1本の川を挟んで存在していたりする。死者は川の向こう、山の向こうにいる。行ったり来たりもできるし「地続き」の感覚が強い。目に見えないこと、超自然的なものというのも、とても近しいところに存在している。

人間、自然(この世)と超自然(あの世)を繋ぐ存在も、じつに多種多様で。「神」といった超自然的なものを左に置けば、そこから右に「妖怪」(鬼・天狗・河童など)、「神使」(狐・蛇・猿・鹿・牛など)、「異類」(狸・鯰・蚕など)「人間」が並ぶ。

神⇔妖怪⇔神使⇔異類⇔人間

「神」は超自然的な存在で、「妖怪」は神が何らかの理由で変容してしまったもの。ともに形而上的な存在です。普通の人間にはなかなか見えない。「神使」と「異類」は要するに「動物」で形而下の存在なんですが、神使が超自然的なもののシンボルや象徴として崇められる存在だとすれば(狐は稲荷神、蛇が大物主、猿は日吉神、鹿は春日神、牛は天神さま)、異類は、その範疇外の存在で。いまの我々の考えでは、これらを「縦軸」に置き換えてしまいがちですが、あくまでも「横軸」の展開であって、それぞれ、存在としての価値は等価です。

化けることは狐も狸もできますが、とくに「狐は憑く」ことができて、「狸は化かす」ぐらいしかできないというのは、これは「神使」と「異類」の存在の違いをよく表現してます。狐は神の使いですから、人間の意識内に憑依して、人間をコントロールすることだってできる。「形而上的な力を持った動物」なんですな。しかし、狸にはそんな特別な力はありません。せいぜい、なにかのモノ(形而下)に化けて、人間を驚かしたりするぐらい。

日本全国に異類の話はありますが、とくに多いのが狸の話。その狸の中でも、特に面白いのが淡路島の「芝右衛門狸」。洲本の三熊山に住んでいて、大坂・道頓堀の芝居が大好きで、よく観に行ったとか。時代は元禄期で、また芝右衛門は初代片岡仁左衛門の贔屓やったそうで。当時の上方歌舞伎は初代坂田藤十郎の全盛期ですが、藤十郎やのうて、あえての仁左衛門贔屓。なかなかの粋で、このへんが渋いんですな。それで仁左衛門が出るとなると、芝右衛門は人間さまに化けて、洲本から船を乗り継いで中座に通う。ところが狸は現金主義やのうで葉っぱ主義なんで、木戸銭を葉っぱで払う。それが興行主にばれて、犬を嗾けられて、中座の入口で食い殺されてしまう。食い殺されてからが、芝右衛門の本領発揮で、怨霊化するんですな。中座にまったく客が入らんようになる。「これは芝右衛門の祟りである!」ということで、劇場関係者が芝右衛門を祀ることにすると大入りを記録。以後「芝居の神様」として中座に祀られることになった。いまだに中座にモニュメントは残ってます。

芝右衛門物語のユニークさは「芝居を観に行く狸」という設定で。芝居ってのは「人間が化ける」って話です。歴史上の人物やら若旦那やら遊女やらに化ける。狸はそもそもは「化ける存在」なんですが、その化ける存在の狸が、「人間の化ける姿」を観に、淡路島から道頓堀までやってくる。このへんに「人間と異類の存在の価値転換」が起こっている。ちなみに、これは仁左衛門のコマーシャルという説もありますな。「仁左衛門の芸は、わざわざ狸まで観に来るほどなんや!」ということで広告宣伝を打った。ありえる話です。

ちょっと話が飛びますが、世の中には「日本三名狸」ってのがあるらしく、誰が言い出したのかようわからんのですが、「佐渡島の団三郎狸」「屋島の禿狸」と並んで「淡路島の芝右衛門狸」が選ばれています。それで「屋島の禿狸」と「淡路島の芝右衛門」は、「化け合戦」をしたことがあるそうで。屋島(平家の落ち武者伝説があるところで禿狸も平家の落ち武者イメージから連想されたという説があります。また落ち武者を指して「あれは人間ではなくて狸だから見逃してやれ」とお目こぼしの理由にされたという説もあります)の禿狸が素晴らしい「源平合戦」を化けて再現すると、芝右衛門は「おれも凄いものを見せてやるから明日、街道に来い」と指定するんですな。それで禿狸が行ってみると、見事な大名行列があって、禿狸は「これは凄い化け具合だ!」と行列の前に出て拍手喝采しようとすると、それは本物の大名行列で「無礼者め!」と禿狸が斬り殺される・・・というもんです。このエピソードもぼくは大好きで「芝右衛門の化かし」は「狸の化かし」と違って「人間の騙し」のような狡猾さを内包している。これはもはや「狸と狸のエピソード」というよりも「狸と人間のエピソード」です。

要するに「芝右衛門(狸が人間に)と仁左衛門(人間が化ける)」エピソードと同じように「禿狸(狸として化かす)と芝右衛門(人間的に騙す)」エピソードも「人間と異類の存在の価値転換」的な現象が、芝右衛門というキャラクターで具現されている。こういう狸は他にいないわけですな。こういう「異類」は非常に珍しい。ぼくが「芝右衛門狸は面白い!」とあっちこっち広言するのは、この「人間と異類を行ったり来たりできるトリックスター」という稀有な特性であるわけです。人間と異類は違う存在だけれども、芝右衛門狸を見ていると、人間と異類が接近してくる。

神⇔妖怪⇔神使⇔異類⇔芝右衛門狸⇔人間

・・・という図式が成立しうる。芝右衛門狸は「人間に最も近い異類」といってしまっていい。これは要するに「異類の果て」にある「神」という超自然的な存在のことを考えるのに「芝右衛門から始める」ということが入口として最適だということでもあります。芝右衛門狸という存在を突き詰めて考えていくと、その先に超自然的な存在ですら射程に収めることができる。

蛇足ですが、もうひとついっちゃうと

神⇔妖怪⇔神使⇔異類⇔芝右衛門狸⇔片岡仁左衛門(役者、アーテイスト)⇔人間

・・・ってのもあるんですな。この場合、芝右衛門狸に匹敵する化かし(異類)の存在として片岡仁左衛門が選ばれてますが、この片岡仁左衛門は「役者」とか「アーティスト」といった存在のアイコンであり、象徴であり、シンボルです。狸とアートが結びつくのも、ココです。だから淡路島アートセンターが「淡路島×アート×狸」ってやるのは非常に理に適った話。なんやみなさんから話を聞いていると、最初は思いつき?直観?でやったみたいですがww いや、しかし、直観にこそ真実が宿る。素晴らしいプロジェクト。淡路島アートセンターのみなさんに拍手!!


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