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ニッシー

2016 年 12 月 8 日

初日は逍遙舎で直観讀みブックマーカーをやって、2日目は千林まち歩き(滝井新地案内w)をやって、ニッシーと2日間ほど遊びまして。一緒に酒飲んでるだけかと思うと、ちゃんとぼくの何気ない言葉をメモしてブログにあげてたりするから、ニッシー恐るべし・・・また飲みまひょ!ww

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■20代の宿題:2016年12月04日「逢着(ほうちゃく)」

http://hero.niiblo.jp/e483057.html

ツルハシブックスは、「偶然」という名のアートプロジェクトだった。そしてそれは、「居場所」になることによって、急速に「偶然」機能を失っていく。「居場所」は日常であるからだ。そして「常連」は、コミュニティであるからだ。

昨日は千林商店街を陸奥賢さんと一緒に歩いた。寄贈本読書会の中で、陸奥さんが放つ一言一言にちょっとドキドキした。

かつて、わが国には「歌垣」というものがあり、そこで、男女が歌を歌いあって、求愛したという。歌垣は、世間から離れた場であり、そこでは、人は、この世のものではなくなった。匿名性のある人になり、歌を歌いあい、愛を求めた。そんな歌垣を現代に復活させる「歌垣風呂」という活動を陸奥さんは行っている。

銭湯で男女が男湯女湯に分かれて歌を歌いあう。そのフィーリングで、カップルが成立するという「感性合コン」だ。顔が見えない相手を、声と雰囲気で判断し、この人よさそうだな、と決める。そんな企画。ああ。もう一度、「考える」から「感じる」へのシフトが始まっているんだなと。

いや、そもそも、現在のお見合いのシステムのように、年収いくらとか職業はなにか、とか年齢条件とか、そんな言語化できる情報で、結婚相手を決めるなんて、そんな「効率的」な方法で本当にいいのだろうか?それって、この150年の「近代国民国家」、つまり、「富国強兵」的な、効率を重視したシステムの中だけの常識なんじゃないか。もっと人は、感性を発動させていいと思う。いや、そのほうが圧倒的に自然というか、普通だろうと思う。

陸奥さんのやっている活動は、「歌垣風呂」だけでなく、「まわしよみ新聞」にしても、「直観読みブックマーカー」にしても、「偶然」と「必然」のあいだを行き来しているように思う。そして人間の持つ「感性」をより研ぎ澄ますような活動であるように思う。

時代の最先端。これからは「感じる」時代なのだ、きっと。もしかしたら、暗やみ本屋ハックツも、そんな場所なのかもしれない。

そんな陸奥さんに、偶然と必然のあいだってなんていうんですか?って聞いてみたら、逢着(ほうちゃく)っていう言葉が返ってきた。

逢着(ほうちゃく)
[名](スル)出あうこと。出くわすこと。行きあたること。「難問に―する」
(コトバンクより)

なるほど。意図しているのか意図していないのか、のぎりぎりのところで出会うこと。アクシデントではなく、予定通りでもなく、逢着する。同じ出来事が人によって、偶然とも必然ともとれるのだけど、そうそう。それって逢着なんだね。そういうのに出会える場所のことを第3の場所と呼ぶのかもしれないなと思った。

僕がツルハシブックスを「偶然」が起こる「本屋のような劇場」と名乗っていたのは、おそらくは、その「逢着」を生みたかったのだ。少しだけ意図しているけど、たまたま出会う何か。それを感じ取る感性。それが本屋さんであるということなのかもしれない。本屋さんが第3の場所であることなのかもしれない。場としての緊張感、一期一会が必要なのかもしれない。

偶然と必然のあいだ。そこに、ひとりひとりの感性を発動させ、つかみとり、そこから未来が始まっていくのだ、きっと。


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