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2021 年 9 月 のアーカイブ

陸奥利宗(僕の曽祖父)の妻ヲカの父は薩摩藩士の小山田休次郎。その休次郎の養父・真蔵は馬場道與流砲術の師範だった。

2021 年 9 月 26 日 Comments off

陸奥利宗(僕の曽祖父)の妻ヲカの父は薩摩藩士の小山田休次郎。その休次郎の養父・真蔵は馬場道與流砲術の師範だった。

馬場道與なる人物は武田信玄に仕えていた馬場信房(長篠合戦で戦死)の孫だそうで、おそらくは武田家(馬場家)滅亡後、武芸者として諸国を渡り歩いた…といった人物ではないだろうか。名門武家が没落した後によくあるパターンですな。もしかしたらニセモノで、自称・馬場信房孫という可能性もあるw

その「馬場道與流砲術」の実態が長年、謎であったが、いろいろと調べたら『武教綱領要歸鈔』という著書があり、それが馬場道與が書いたものということがわかった。

では、この『武教綱領要歸鈔』はどこでみれるのか?と調べてみたら、なんと岩手県一関市の芦東山記念館に収蔵されているという。国立国会図書館にもない。

また岩手県いったときに訪れてみるか…。


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僕の曾祖父は陸奥利宗といい、宇和島藩士なんですが、利宗の妻・小山田ヲカの父は小山田休次郎という薩摩藩士です。「七卿落ち」の五卿を守るために太宰府・延寿王院に配属された…という文献が残ってます。

2021 年 9 月 24 日 Comments off

僕の曾祖父は陸奥利宗といい、宇和島藩士なんですが、利宗の妻・小山田ヲカの父は小山田休次郎という薩摩藩士です。「七卿落ち」の五卿を守るために太宰府・延寿王院に配属された…という文献が残ってます。

小山田休次郎の養父・小山田真蔵は、薩摩藩の馬場道與流砲術(武田信玄に仕えた馬場信房孫が創始者の和流砲術)の達人で鉄砲指南役であったとか。休次郎もおそらくその砲術を修練したであろうし、もしかしたら戊辰戦争にも参加していたかもしれないし、白河で戦っていたかもしれない…というようなことを白河市歴史民俗資料館の学芸員さんに話をしていたら、こんな資料がありますよ、とお教え頂いたのが『薩藩出軍戦状』。

戊辰戦争での薩摩藩士の戦闘がすべて記録されているとか。凄い資料ですな。調べてみるか…。
もし休次郎が白河で戦ったりしてたらビビるなあ。

※画像2枚目が小山田休次郎の戸籍謄本。天保10年(1839)生まれですから戊辰戦争(1868〜1869)時は30歳前後。働き盛りではあります。


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大坂→大阪(大坂の没落・大阪への願い)

2021 年 9 月 16 日 Comments off

一番古い大阪燈籠・住吉大社_01a
大阪には「いつから大坂ではなくて大阪が使われるようになったのか?」という、どうでもいい人にはどうでもいい問題がありw 

江戸時代は「大坂」で、明治時代から「大阪」になったというのが通説ではあるが、調べてみると江戸時代から「大阪」は使われだしている。

わかりやすいのが住吉大社にある大阪庭構中の燈籠が「大坂」ではなくて「大阪」を使っている。これが天明6年(1786)のもの。大阪を使った石造物では最古級のものだと思われる。

これは巷間よくいわれることだが、大坂の「土」(つちへん)は「土に返る」という意味があり、大阪の「⻖」(こざとへん)は「土を盛る」といった意味がある。元禄期の大坂の繁栄は淀屋闕所や宝永大地震(東南海大地震)で停滞し、紀州・徳川吉宗の江戸入城もあって、上方文化が江戸に移っていく。そうした影響で天明期の大坂は確かに没落していた。「大阪」という文字を使いだすのも、そういう「かつての栄光再び」の願掛けが込められている。

歴史的には天明以後に化政文化(1804~1830)時代がやってくるが、これも江戸が中心。かつての元禄文化(1688~1704)は大坂・上方が舞台であったが、大坂の化政文化期は残念ながら元禄文化期ほどの輝きはない(細かく見ていくと素晴らしい芸術や学問分野での進歩、業績はあるのだが…)。

結果、18世紀以降、大坂は長期的に下降気味で、幕末からどんどんと時代が進むに連れて「大阪」の文字使用も増えていく。そして明治以降、「大阪」が決定的になる。

「大坂→大阪」になったように「大阪没落」というのは、ここ数年の話ではなくて。長い長い歴史的なスパン、流れがある。だから、その歯止めは、なかなか難しい。一朝一夕ではないということです。


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