アーカイブ

2022 年 4 月 4 日 のアーカイブ

大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。塚原山根本寺。

2022 年 4 月 4 日 Comments off

大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。塚原山根本寺。

日蓮は鎌倉幕府を批判し、その結果、佐渡島に流される。俗にいう「佐渡法難」。文永8年(1271)のことで日蓮は50歳を超えていた。

佐渡島で日蓮が住んだのが死者の捨て場所で累々たる塚が広がる寒々しい三昧堂であったという。そこで他宗の僧侶が集まってきて日蓮と宗論を戦わしたが結果、日蓮の大勝利に終わった。『塚原問答』といい、その経緯を記した『法華浄土問答抄』(日蓮と浄土教の僧侶が連名で血判した真筆も残されている)も伝えられている。

その後、日蓮は当地で『開目鈔』を執筆し、「末法の大導師 本化上行菩薩とはこの日蓮なり」と宣言。有名な「我れ日本の柱とならん」「我れ日本の眼目とならん」「我れ日本の大船とならん」の三大誓願を記した。

陸奥賢は何の因果か、在家法華新興教団・霊友会の3世信者として、この世に生まれてますから。幼い頃から三大誓願について教えられてきた。ある意味「日蓮とはなにか?」は我が生涯の問いのひとつ。佐渡島にいったら絶対に訪れたいと思っていたのがココでした。感無量でしたなぁ。

この塚原には以下のようなエピソードがある。

かつて順徳上皇に仕えて佐渡島にまで渡った北面の武士で遠藤為盛(遠藤盛国説もある)という男がいた。順徳天皇が崩御してから、その菩提を弔うために浄土教の僧侶となり、「阿仏房」と呼ばれた。ところが佐渡島に浄土教否定、念仏否定の日蓮が来る。阿仏房は侮辱されたと感じ、日蓮を殺すつもりで塚原三昧堂を訪れる。ところが日蓮の教えを聞くと阿仏房は法華経の素晴らしさに目覚めて改心。熱心な弟子となり、日蓮の佐渡での生活を支えたという。

ほんまかいな?ですが、阿仏房は日蓮と出会ったときは既に84歳の高齢とか。日蓮は、その後、放免されて佐渡島から山梨県身延山に移りますが、阿仏房はその後、91歳で亡くなるまで3度も身延山の日蓮を訪れたという。

天皇崇拝+法華経といえば、まさに日蓮主義。そのいっちゃん最初の具現者、体現者が、この阿仏房ではないだろうか。田中智學、北一輝、石原莞爾のパイオニアといえるかも知れない…いや。言い過ぎか。言い過ぎやな。すいません。言い過ぎました。


カテゴリー: 雑感 タグ: