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上海の彩り~上海開港(1842)から上海万博(2010)まで~

2010 年 12 月 23 日 Comments off

 

1842年。南京条約によって静かな、地味な漁村だった上海が欧米列強諸国に解放されました。中国からは最上級の茶や絹、陶磁器が輸出され、列強からはこれまた極上の阿片が齎され、黄浦江の外灘には壮大流麗な外資系の西洋建物が並んでいきます。

英国人の金融家、ユダヤ人の銀行家、アメリカ人の宣教師、ロシア人のサーカス団員、フランス人の俳優、オランダ人の保険屋、ドイツ人の音楽家、日本人の軍人・・・社交界の名士から大富豪、政治思想犯、犯罪者、亡命者まで。エキゾチックを通り越して、世界の狂乱をそのままダイレクトに輸血したようなカオスの混血都市が誕生したわけです。1930年代には「東洋のパリ」と呼ばれ、2500年に渡る儒教国家・中国の道徳はかつてないほどに退廃します。代わりにダンスホール、社交倶楽部、阿片窟、売春宿が乱立して「魔都上海」の夜の享悦楽は世界中の凡ゆる男を欲情させました。

清末期の混乱も上海の疾風怒濤の急拡大に拍車を掛けました。太平天国や数々の地方反乱から逃れようと大量の避難民が上海に集まり、彼らは苦力(クーリー)として、彼女らは娼婦として、上海経済の最下層の労働者となりました。また弾圧された改革派の闘士たちも上海の漆黒の闇を隠れ蓑としました。孫文も、蒋介石も、毛沢東も、みな上海で決起し、上海の財閥(上海閥)と結託し、やがて中国全土を支配していきます。

しかし1949年に中華人民共和国が成立すると、中国共産党の指導者たちは、名だたる革命家を排出した上海閥の力を恐れたのか、その力を削ごうとします。悪名高い文化大革命では「西欧かぶれ」の上海は最も解りやすい標的となり、呉の英傑である孫権が3世紀に建立した名刹・龍華寺でさえ、徹底的に破壊され、廃寺に追いやられました。中国にとって外国資本によって開発された上海は「屈辱の都市」であり、上海憎しの怨嗟は、なんら外資に関係ない古代の名刹にまで及んだわけです。およそ半世紀近くに渡って共産党指導部は上海閥を弾圧し、その富を強引に吸い上げて、内陸部の首都・北京(北京閥)に供給し続けました。

その流れに変化が訪れるのは天安門事件と、その後、共産党指導部が緩やかながらも改革解放路線に転じたことに拠ります。上海は屈辱の都市から一転して改革開放路線の象徴となり、共産党指導部の承認によって2010年、ついに「上海万博」が成立しました。それが上海閥の勝利であるのか、それとも北京閥の余裕であるのか、その判断は僕にはつきかねますが、ただひとつ言えることは上海万博は、上海という都市の170年の歴史の中で、初めて陽光が当てられた歴史的転換であったこと。

中国に、アジアに、上海あり。その高らかな表明。世界の都市文化に、鮮やかな彩りが添えられました。


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京都南座「吉例顔見世興行」 愛之助贔屓宣言

2010 年 12 月 22 日 Comments off

年末、京都南座「吉例顔見世興行」を観ました。片岡愛之助の「外郎売」に拍手喝采。市川海老蔵の急遽の代役だったわけですが、これがもう見事!

「外郎売」といえば、市川宗家の十八番中の十八番で、これを演じることが宗家の宗家たる由縁であったわけですが、それを上方歌舞伎の片岡愛之助が見事に演じきったとなると、これは市川宗家の面子丸潰れやないでしょうか?江戸歌舞伎が上方歌舞伎の役者の手に掛かれば、お茶の子さいさい。御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ、茶立ちょ。青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。

片岡愛之助さんは大阪・堺市の一般家庭から歌舞伎の世界に弟子入りしたとか。昨今の歌舞伎界では珍しい、世襲ではない歌舞伎役者なんですが、希代の名優・十三代目片岡仁左衛門に見い出されただけあります。和事もやれば、荒事もこなす。華もある。気品もある。姿も良い。まさに三拍子。

ぼくは愛之助贔屓を宣言します。


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備忘録:上海・蘇州

2010 年 12 月 21 日 Comments off
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北田辺 開高健の旧宅にて 「一夜限りの最後のトリスバー」

2010 年 12 月 12 日 Comments off



画像は開高家の表札。開高さん自身の手によるものと思われます。

2010年12月10日、「一夜限りの最後のトリスバー」が大阪市東住吉区北田辺にある開高健の育った旧宅(残念なことに今月半ばに解体予定)にて開催されました。ぼくは、北田辺の大阪あそ歩ガイド、吉村直樹さんと谷福江さんのお誘いで末席に加えさせていただきました。

開高さんの旧制天王寺中学の同窓生で、京都大学化学研究所名誉教授の作花済夫さんの思い出話や、開高健さん自身の朝日新聞社主催の天王寺高校での講演会(昭和53年11月27日)の貴重な録音などを聞かせていただきました。講演会は、照れているのか横柄な物言いなんですが、時折、リップサービスで下ネタなんかを織り交ぜて、いかにも開高節炸裂!で興味深かったです。

総勢80名ほどの参加で、心の底から楽しい、素晴らしい「一夜限りの最後のトリスバー」でした。聞けば、なんと開催1週間前に企画して実行という超過密スケジュールだったとか。関係者の皆さんの、開高健に対する愛と情熱に深い敬意を。本当に頭が下がります。ありがとうございました。

※後日、毎日新聞にも掲載されました。

【一夜限りのトリスバー:開高健さんしのび開店 大阪の旧宅で乾杯】
作家の開高健さん(1930~89)が少年期から青年期を過ごした大阪市東住吉区の旧宅で10日、開高さんをしのぶ「一夜限りのトリスバー」が開店した。旧宅は今月半ばにも売却、解体される見通しで、「バー」はまちづくりボランティアらが企画。事前予約したファンや同級生ら約40人が集った。

「バー」では、開高さんが寿屋(現・サントリーホールディングス)社員時代に生み出したキャッチコピー「トリスを飲んで『人間』らしくやりたいナ」の言葉で乾杯して開会。約30年前に開高さんが母校の大阪府立天王寺高校(旧制天王寺中学校)で講演した時の録音テープが流され、生前の開高さんの思い出話に花が咲いた。

旧制中学時代の同級生の京都大名誉教授、作花済夫さん(80)は「開高は気さくな勉強家だった。たくさんの人たちが集まってくれてうれしい。すごい作家なんだと再認識しました」と話し、笑顔でグラスを傾けた。【矢島弓枝】


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土葬から火葬へ~大坂七墓 行基菩薩開基南濱墓所~

2010 年 12 月 11 日 Comments off



その昔、大坂には「大坂七墓」(濱、梅田、葭原、千日、蒲生、鳶田、小橋)がありました。そのうちの「濱」が、現在の豊崎にある行基菩薩開基南濱墓所(南浜墓所)に繋がっているといわれています。

ここは日本最初の火葬所ともいわれています。それまで倭人の葬送は土葬だったのですが、行基の導きによって、我が国で初めての火葬が行われたとか。

古代には土葬は儲かりました。大王や豪族というものは大きな古墳を作りますから、これは一種の公共事業、土木工事で、ビジネスやったんですな。ところが時代が経るに連れて、あっちこっちに古墳ができますから、そのうち用地も少なくなっていきます。大きな古墳というものは作れないし、作らない。そうなると事業にならないし、儲からない。

こういうときに行基が土葬ではなくて、火葬という新しい葬式システムを導入したんですな。というのも火葬は用地は必要としませんが、莫大な薪が必要でした。専門的な技術も必要でした(70%が水分である人間を、綺麗に骨だけ残して焼く・・・というのはなかなか難しいとか)。つまり古代では土葬にするよりも、火葬にするほうが費用がかかったんです。だから天皇、貴族といった金持ちは火葬でしたが、庶民はずっと土葬のままでした。

行基という人は、日本全国に温泉を掘ったり、橋を掛けたり、ため池を作ったりして、僧侶というより、完全に土木工事の親方です。最終的には国家の依頼で、東大寺の大仏まで建立しました。また行基の手下には「土師」(はじ)の一族がいて、これらが、そうした公共事業や土葬をやっていたようです。しかし、土葬に関して云えば、これはもう儲からないということで、行基の指導の下で、火葬を執り行う祭祀集団に切り替えたんでしょう。そうすることで、彼らのビジネスを成立させた。「土木コンサルタント 行基」ですな(笑)

学者先生は、土葬から火葬という流れは、日本人の死生観が神道式から仏教式に変わった証明・・・なんて難しいことをいうんですが、それも一理あるでしょうけれど、本当は、こうした経済的な理由もあったと思います。世の中、金が動かすということでしょうか。


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「ぼてぢゅう」「づぼらや」「たこ梅」

2010 年 12 月 10 日 Comments off

お好み焼きの「ぼてぢゅう」いうんは大阪人らしいネーミングですな。いまはどこでもお好み焼にマヨネーズとからしをつけますが、この味付けは「ぼてぢゅう」が考案しました。店名の由来はお好み焼を「ぼてっ」とコテで返して鉄板の上で「ぢゅう」と焼くことから。非常に即物的。しかしリズムが良い。最初は「ぼ」の「濁音」から始まって最後は「ぢゅう」と「拗音」+「長音」で終わる。どこかユーモラスが漂う。即物的な擬音の羅列でありながら、お好み焼の匂い、熱、色、味のイメージまでもが彷彿とさせられる。唯物的であるのに一抹のおかしみがある。なかなかこんな店名おもいつけません。これぞミナミの、大阪人のセンス。
http://www.botejyu.co.jp/

フグいうたら扱いは細心の注意が必要です。血管や肝に毒があるそうで1本1本ピンセットで抜くそうですな。細かい神経の人間がやらなあかんのです。「ずぼら(づぼら)」な奴では困る。「ずぼら」いうんは大阪弁で「不精をする」「なまけもの」「面倒臭がり」みたいな意味です。「あんた、そないずぼらしたらあかんで」なんて具合に使いますが、そういう人間はフグの調理にはいっちゃん向いてない。しかし大阪ではそれがフグ屋の店名になってる。曰く「づぼらや」。フグ屋やのに「づぼら」いうたら「毒残ってまっせ。知りませんで」というようなもん。しかし安い。美味い。大阪の船場の旦那衆は「おもろい店や」いうんで通って流行りました。
http://www.zuboraya.co.jp/

「食い合わせが悪い」食べもんいうんが世の中にはあります。「天ぷらと西瓜」「蟹と柿」「鰻と梅干し」あたりは有名ですな。食道楽の大阪人もそのへんは敏感でした。ところがそこを逆手にとった店もあります。それがおでん(関東煮)の老舗「たこ梅」。じつは「たこ」と「梅」いうんは食い合わせが悪いもんとして忌避されてたんですな。一緒に食べると食あたりを起こす。食中毒を起こす。ところが、それを店名にした。これまた大阪流のブラックジョーク。ここは織田作の「夫婦善哉」にも出て来て有名です。
http://www.takoume.co.jp/

ミナミ、道頓堀を歩いていて、ふと。


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堺 水野鍛錬所 与謝野晶子歌碑 『住の江や 和泉の街の 七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路』 除幕式

2010 年 12 月 4 日 Comments off



堺の老舗鍛冶屋「水野鍛錬所」さんが店先に与謝野晶子の『住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路』の歌碑を建立したそうで、その除幕式に参加させていただきました。

「ななまち(七町)」というのは、宝暦8年(1758)に堺奉行・池田筑後守正倫の取り計らいで、堺製のタバコ庖丁を幕府公認として日本全国に売り捌くことになり、そのさいに37軒の鍛冶屋を公認業者として指定しましたが、それらの業者が堺北部の北旅籠町、桜之町、綾之町、錦之町、柳之町、九間町、神明町の「七町」に住んでいたことに由来するとか。カジヤ業界の専門用語らしいのですが、それを与謝野晶子が知っていたというところが、また面白いですな。いまはあまり聞かれませんが、堺では「ななまち」といえば有名で、ブランド化していたということなんでしょう。もちろん水野鍛錬所さんは、その「ななまち」(現在の桜之町西。紀州街道沿い)にあります。

「七」と「菜の花」の「na」の音の羅列。それを挟んで「住の」「和泉の」「街の」「七まちの」「鍛冶の」「菜の」「花の」と「no」の音が、まるで鍛冶屋のトンテンカンの音のようにリズミカルに響く。与謝野晶子というと、どうも情熱的な「明星派」の閨秀歌人といったイメージが先行してますが、じつはこうした音感、街の臨場感、都市感覚の表現にも優れた歌人やったんやなぁと改めて敬服しました。

晴天。じつに素晴らしい除幕式。水野鍛錬所さん、ありがとうございました。


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大阪の繁華街「キタ」「ミナミ」、名前の由来は… [日本経済新聞大阪夕刊オムニス関西2010年12月1日付] 

2010 年 12 月 1 日 Comments off

日経新聞の記者さんから「大阪のまちの名称について」意見を求められて、電話取材にお答えしました。以下がその記事です。

大阪の繁華街「キタ」「ミナミ」、名前の由来は…

「今夜はキタで飲もう」「この服、ミナミの百貨店で買ったのよ」。大阪では聞き慣れたこの会話。キタは梅田周辺、ミナミは難波周辺を指すのは関西人だけではなく広く知られた事実だ。ではキタやミナミの呼び名はどのように浸透したのだろう。ヒガシやニシという言葉はないのか。

キタ、ミナミという言葉はどれほど定着しているのか。大阪市によると、いずれも公式文書で使われる正式な表記だ。ただ定義はあいまいで「繁華街としての大まかな場所を指す程度」(同市)という。

ではいつから、どのようにキタやミナミの呼び名が広がったのか。大阪市にまつわる歴史的な地図や資料を数多く保存する大阪市史編纂(へんさん)所(西区)を訪れた。

「キタやミナミは『北』『南』という単なる方角ではなく繁華街の固有名詞が崩れて愛称になったと考えるのが自然でしょうね」と話すのは大阪市史料調査会の古川武志さん(39)。明治時代の文献には「堂島の北、これを北の新地という」「南の新地、南地五花街」との記述が登場する。

古川さんによると、キタやミナミの語源は江戸時代に遡る。当時、住居や商店が集まる中心街は船場だった。現在のキタは森や畑が広がる村で、ミナミは寺や墓場などが目立つ土地だったという。キタとミナミは、まちづくりのために江戸幕府が人為的につくった地域だった。

ミナミの発祥は芝居小屋が幕府の許可を得て道頓堀に置かれたことが始まり。客が立ち寄る茶屋などが周辺に生まれ、繁華街らしく成長した。

一方、キタは商人が接待に利用する町として栄えた。中之島の蔵屋敷でコメの取引をした後、商売人が接待に使う町がないということでつくられたのが「北の新地」という。

さて、ヒガシやニシはどうだろうか。特に目立った地域がないことについて、大阪21世紀協会の堀井良殷理事長(74)は「船場を起点にすると、東は大阪城で西は大阪湾。繁華街が生まれる余地がなかったのだろう」とみる。

もっとも、まちおこしのキーワードとしてヒガシ、ニシが注目される機会もあった。

1990年発行の京阪電気鉄道の社史には「キタの中心が梅田、ミナミの中心が難波なら、ヒガシの中心は京橋だ」とある。同年4月にはJR京橋駅のある城東区に隣接する鶴見区などで「国際花と緑の博覧会」が開幕。京橋周辺には高層ビルが並ぶ大阪ビジネスパーク(OBP)が誕生、市営地下鉄鶴見緑地線(現長堀鶴見緑地線)が開通した。

社史によれば、ヒガシは京橋だけでなく、天満橋や大阪城、大阪府庁など官公庁を含むエリアを示す。新京橋商店街振興組合(都島区)の事務局担当者は「組合内では京橋をヒガシと呼ぶこともあるのに、なぜ一般に定着しないのでしょうか」と首をかしげる。

ニシはどうか。西区の自営業者らはニシという呼び方を定着させようと、2009年、「大阪ニシ.com」というポータルサイトを立ち上げた。

ただニシが阿波座や弁天町など西区や港区を指すのか、さらに西側の埋め立て地やユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、此花区)などベイエリアまで指すのか、議論の分かれるところだ。埋め立て地がさらに西側に広がる可能性もある。「ポイントとなる繁華街は決められないのです。まちづくりは“発展途上”ですから」(古川さん)

「エリアを大ざっぱに表現すると街の色が消える。細かい地名で呼んでほしい」と訴えるのは、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会のアシスタントプロデューサー、陸奥賢さん(32)だ。

同会が企画する「大阪あそ歩」では、大阪市内で150コースの町歩きツアーを実施している。「船場と一口に言っても『八百屋町』『鳥屋町』など、かつて同業の人々が店を並べていた土地を指すような地域名が住民の間に伝わっている」(陸奥さん)

呼び慣れたキタやミナミ、なじみは薄くてもヒガシやニシの背景にある地域の歴史や人々の思いを知り、奥深い大阪への愛着がぐっと深まった。

(大阪社会部 松浦奈美)

[日本経済新聞大阪夕刊オムニス関西2010年12月1日付]


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忠臣蔵秘話 大阪・円通院 大石権内良昭(大石内蔵助良雄の父)墓所

2010 年 12 月 1 日 Comments off



『忠臣蔵』の大石内蔵助良雄は有名ですが、父の大石権内良昭はまるで知られてません。ましてや、その父の墓が大阪市北区兎我野町の円通院にあることは、もっと知られていません。

大石良昭は寛永17年(1640)~延宝元年(1673)の人で、赤穂藩浅野家筆頭家老の大石良欽の嫡男です。父の死後には赤穂藩筆頭家老になるはずでしたが、赤穂藩の大坂屋敷に勤めていたさいに急逝(享年34)しました。その後、大石内蔵助は、祖父・大石内蔵助(祖父も内蔵助といいました)良欽の養嗣子となって大石家の家督を継ぎました。

ここで面白いのが、祖父の良欽は、寛文元年(1661)に京都内裏が炎上したさいに、新内裏造営を命じられた赤穂藩主浅野長直に代わって京都へ赴き、造営工事の総指揮をしたこと。その出来栄えは素晴らしく、後西天皇からも絶賛されたほどで、この成功から赤穂藩は皇室お気に入りの藩となりました。

その40年後の元禄14年(1701)、東山天皇の勅使が江戸に下ることになり、その接待役として赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が大抜擢されたのは、この皇室お気に入りということが起因でした。そして、その接待の指南役として赴任してきたのが高家肝煎の吉良義央だったというわけです。『忠臣蔵』には、こうした歴史的背景があるんですな。

一説によると、浅野内匠頭と吉良上野介(幕僚ですから、もちろん将軍派です)のイザコザとは、勅使(天皇の名代)と征夷大将軍のどちらの位が上か?どちらが上座に座るか?料理の順番はどちらが先か?といった問題で、作法云々ではなくて「朝廷VS幕府」という権力闘争だったとか。確かに江戸城松の廊下で抜刀して斬りつけるというのは、何かしら、よほどのイデオロギー(正義体系)がないと難しいだろうという気もします。

また大石内蔵助良雄は「皇室崇拝の祖父に育てられた」という歴史的事実は見逃せません。単なる「仇討ち事件」ではなくて、じつは「朝廷VS幕府」の政治闘争が背景にあった・・・そう考えるほうが『忠臣蔵』はわかりやすいかも知れません。


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河内一ノ宮・枚岡神社 『笑い神事』

2010 年 11 月 30 日 Comments off

大阪府東大阪市にある河内一ノ宮・枚岡神社は、日本古代史上の一大聖地です。ここには初代天皇・神武天皇が東征をする以前から、謎の天孫族ナガスネヒコが住んでいました。枚岡神社のある生駒山脈は、大阪・河内(港)と奈良・飛鳥(都)を睥睨する拠点で、ここを抑えることは天下を押さえることを意味していたんですな。だから神武天皇も東征で当地の征服を目指したんですがナガスネヒコに大敗北を喫しました。そこで大迂回をして和歌山経由、熊野経由で奈良・飛鳥に入って天皇(スメラミコト、オオキミ)を名乗ります。「記紀」によれば日本という国はここから始まったこととされているんですが、よくよく考えると天皇家よりも強い天孫族が依然として大阪・河内に存在していたことになります。古代ヤマトは天皇中心の中央集権国家というよりも、地域部族の連合体であったことを暗示しています。

まぁ、そういった蘊蓄はさておき。以下は、お世話になっております、いずみ縁さんから枚岡神社の『笑い神事』の案内メールです。素晴らしい神事ですので、ご都合の合う方はぜひともご参加してください。

いつ頃からある神事なのか不明ですが、神武天皇を打ち破った山で大笑いするというのも非常に意味深やなと、ぼくなんかは考えるんですが・・・。

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笑い笑って日がのぼる 枚岡神社@12月25日
http://www.hiraoka-jinja.org/index.html

河内国一之宮枚岡神社神様が坐す神聖な場所日本のあけぼの地 (近鉄奈良線枚岡駅前)

元春日と称えられ、2600年前創建されたという河内一之宮枚岡神社静かな神奈備山には、日本最古と言われる豊かな森がひろがり神武天皇上陸の聖蹟の碑や、歴史上のプリンス達のひそやかな息使いが聞こえるような場です。数々の伝説の中で古代より、ひっそりと行われてきたご神事・・・この古式ゆかしいご神事は、室町時代より続く粥占神事の前に祭事として、冬至の日に行われていました。

昨日の冬至と、四百年に一度の皆既月食を越えて、新しき太陽が生まれかわった今日のこの日に、この様なメールを回せる幸せを感じます。時代が目まぐるしく変化しても、いつの世の日本人も自然のうつろいにそい、独自の美意識の中で脈々といにしえより伝わる祭を繰り返してまいりました。

今年も、天岩戸をひらく『笑い神事』は明日12月25日午前9時

前日より神社総代によってつくられた新しい注連縄(しめなわ)が はり渡され、その前で、中東宮司さま以下、神職、総代、氏子が「アッハッハー」と高笑し新しい春を迎える笑いの行事。今年一年のしめくくりに、感謝と祈りをこめて、皆さん誘い合わせてたくさんでお運びください。よろしくお願いします。

笑福会事務局@いずみ縁上本町ANNEX


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