お初天神 梅の花

2008 年 2 月 26 日 Comments off

02
お初天神にて。もう梅の花のつぼみが咲き始めていました。

ぼくは桜より梅が好きです。「ぱっと咲いて、満開のさかりに、ぱっと散る」という「桜の美学」は、よく武士道精神の発露と讃えられますが、ぼくは「最後の最後まで諦めずに枝に留まって老いさらばえて、あるべき一生を見事に終えてから、ようやく落ちる」という「梅の美学」が好きです。それはけっして無様でも無粋ではなくて、花として誠実であり、立派であるとぼくは思っています。

その性質から桜は東京の花という気がします。大阪は桜よりも梅が似合います。管公(菅原道真公)が「東風吹かば匂いおこせよ」と愛したのは梅の花でした。王仁博士が歌った「なにわ津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」の花も、桜ではなくて梅のことです。梅は鑑賞できて匂いもよくて、あまつさえ食べられます。風流で経済的。じつに大阪人好みやないですか(笑)

大阪は梅の国です。大阪人は、梅の花のようにあらねばならないと思いますよ。梅の花のように美しく。強く。誠実に。立派に。


カテゴリー: 雑感 タグ:

AllAbout「大阪」サイトオープンのお知らせ

2008 年 1 月 30 日 Comments off

関係者様各位

平素は格別のご厚誼にあずかり、厚く御礼申し上げます。
AllAbout「家族で楽しむイベント(関西)」
http://allabout.co.jp/gs/eventkansai/
オフィシャルガイドの陸奥賢です。

さて、生活総合情報サイトAllAboutは、約500に細分化されたテーマごとに、ガイド(専門家、評論家、ライター)が情報提供するメディアとして、住宅、グルメ、健康、金融、旅行などさまざまな分野のガイドサイトを取り揃えておりますが、このたび大阪の情報を一元的にまとめた「All About 大阪」がオープンいたしました。
http://allabout.co.jp/gs/travelosaka/

大阪のグルメ、レジャー、イベント、観光情報などを発信、提供する大阪専門ポータルサイトで、大阪在住のガイドが現地取材をモットーにして、ユーザー(読者)視点で、情報を編集し、記事としてお届けしてまいります。

また既存の「家族で楽しむイベント(関西)」サイトは2008年3月をもって休止とさせていただきますが、代わって「大阪」サイトの新設によって、より「大阪」に特化した情報提供を行います。ユーザー(読者)の積極的なサイト利用と共に大阪レジャー観光を促すことで、大阪経済の振興、地域活性化に繋がるように奮励努力していく所存です。

ここに謹んでご挨拶申し上げますとともに、関係者様各位には、イベント案内、プレスリリース配信等の情報提供をお願いして、ご鞭撻を賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。 

AllAbout「大阪」ガイド
http://allabout.co.jp/gs/travelosaka/
陸奥 賢


カテゴリー: 雑感 タグ:

大江戸の火消し(Smoke on the Water:木遣りヴァージョン)

2008 年 1 月 22 日 Comments off

大江戸の火消し(Smoke on the Water:木遣りヴァージョン) 


浄瑠璃、常磐津節によるスモーク・オン・ザ・ウォーターです。

浄瑠璃は中世の傀儡師から発展したもので、傀儡師は神に仕える存在でした。彼らは八百万の神々の言葉を「ことほぐ(言祝ぐ)」ことが求められました。だから浄瑠璃は今でも「語り」といいます。決して「歌う」とはいいません。

それで、この映像を見ていて、少し異様に感じられるのが、どの語りも一様に「無表情」であること。語りだけでなくて、三味も鼓も、みな無表情なので、一種、独特の迫力があります。これは日本の古典芸能の演者たちが、神と音楽は一体であると考えたことに起因します。つまり演者は、ただ、神の言葉を伝える役割(形代=かたしろ)に過ぎないので、そこに演者のヒューマニティ(人間性、感情)というのは求められなかったわけです。演者に求められるのは、ただひたすら「無私」の境地なんですな。

ここで注意してほしいのは「無私」であることは、しかし、決してヒューマニティの否定ではないということ。むしろ、完全なる、あらゆる感情を表現しようとすると、演者は無表情にならざるを得ないということです。人間の持つ感情、喜怒哀楽すべてを表現しようとすると、それは無表情でしかありえない。プラス(陽、正)の感情、マイナス(陰、負)の感情を全部足すとゼロになるのと同じ理屈です。

そういう全的なヒューマニティを表現するものとして、能楽には「中間表情」の能面があります。泣いているのでもない、笑っているのでもない、口を半開きにした、なんともいえない表情の能面です。これは舞台に出ると光線の加減で影になったり、光になったりして、様々な感情表現を可能にします。人間の全的な感情をいっせいに込めると、どうも人間というのは、こうした「中間表情=能面のような顔」になるようです。

西洋美術でいえばダ・ヴィンチの『モナリザ』。その謎の微笑みは、じつは「中間表情」に該当するものです。またピカソなんかは「泣いている横顔」と「笑っている正面」の顔を同時に描きましたが、これもモデルの全的なヒューマニティをなんとか表現しようとして悪戦苦闘してたどり着いた方法論なんでしょう。

ダ・ヴィンチやピカソといった超一流の西洋美術が到達した深奥な芸術表現が、日本の古典芸術の中には、既に当たり前のようにあるということ。それが、いまだに消えずに継承されていることは、我々の矜持です。

【大江戸の火消し(Smoke on the Water)】

俺たちゃ琵琶湖に行った 弁財天詣でさ
夜詰めの当番済まして 湯治も兼ねて
たまには上美女揃えて 杯重ねて
木遣りの声にも磨きを あてて帰ろうか

大江戸の火消し 空もはればれ
大江戸の火消し

琵琶湖じゃ畔の小屋で 芝居をやっていた
ちょいと覗いて行こうか 急ぎの旅でなし
江戸からの旅役者が はるばる来ていた
はだか火使って火が出て 俺たちの出番さ

火事場にゃ火消し 空には火の粉だ
火事場にゃ火消し


カテゴリー: 雑感 タグ:

「堺文化の広がりと祭り」シンポジウム

2008 年 1 月 19 日 Comments off

堺で祭りについてのシンポジウムをやります。僭越ながらぼくが講師として出ます。もしよろしければご参加ください。
http://www.sakai-nan-ya.net/2007/04.pdf

▼ディスカッション「時代の流れとこれからの祭り」
現在の地域社会の課題、これからの地域活性化・地域コミュニティの維持・発展において、「祭り」がどのような役割を担うべきか、活かしていくべきかを考える。

■日時:2008年1月20日(日)11時30分~15時(11:00受付)
○11時30分~13時00分:セミナー
講師:三上尚嘉氏(開口神社宮司)
    陸奥賢氏(AllAbout「大阪」ガイド、フリーライター・カメラマン)
    西田幸次郎氏(堺「まち・話そうよ会」会長)

○13時00分~15時00分:座談会(軽食付き)
総括:角山榮先生(和歌山大学名誉教授、堺なんや衆顧問)

■会場:カフェレストラン「スコーレ」
住所:大阪府堺市田出井町 2-1 サンスクエア堺内
TEL:0722-29-0373 FAX:0722-29-0373
JR阪和線堺市駅西出口徒歩 5分

※サンスクエア堺
http://www.sck.or.jp/sc/SSindex.htm

※カフェレストラン「スコーレ」
http://r.gnavi.co.jp/c445000/

■参加費:一般3000円(会員2500円)  セミナーのみ参加 1000円

■申込み、お問合せ先
氏名、住所、電話番号・FAX番号、メールアドレス等ご連絡先をご記入の上 はがき・FAX、またはメールにてお申し込みくだい。HPからも申し込みが可能です。
http://www.sakai-nan-ya.net

市民活動団体「堺なんや衆」
〒591-8032 堺市北区百舌鳥梅町3-39-27
FAX:072-257-1934
info@sakai-nan-ya.net
http://www.sakai-nan-ya.net


カテゴリー: 雑感 タグ:

初詣・金岡神社

2008 年 1 月 3 日 Comments off

0  

初詣で金岡神社にいってきました。ぼくが住んでいる堺・新金岡地区の氏神さまです。
http://www.kanaokajinjya.com/1p.html

金岡神社は平安時代初期の仁和年間(885年頃)に住吉大神をお祀りして創建されたそうです。その後、 一条天皇の御代(986年頃)に勅命によって画聖・巨勢金岡卿を合祀し、金岡神社と称するようになりました。境内地は「日本最古の国道」といわれる竹ノ内街道に面しています。

金岡卿は大和絵の大家として有名で、芥川龍之介の「地獄変」などにも名前が出てきますが、平安京の禁苑(皇族のみが入れる庭園)「神泉苑」のプロデューサーなんかもやってまして、金岡卿のプロデュース時代(868~872年)に神泉苑で始まったのが、「祇園御霊会」(869年)…現在の日本三大祭「祇園祭」です。要するに金岡卿は「祇園祭の仕掛け人」といえるかも知れません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E9%87%91%E5%B2%A1
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/schedule/02.html

「なんで堺に絵の神様の神社が?」と思いますが、ヒントは「竹内街道」にあります。金岡神社は竹内街道の通り道にありますが、この竹内街道は別名「丹比道」(たんぴみち)と呼ばれていました。「丹比」というのは、水銀とか鉛とかの鉱山資源のことで、「丹波」「丹後」「丹羽」「丹生」など日本全国に「丹」という字がつく地名は多いのですが、これらはその地域に鉱山資源があったか、または鉱山資源を発掘する一族が住んでいたのでは?と推察できます。それで竹内街道は堺から奈良・二上山へのルートとなっていて、この二上山というのが、1400万年前までは火山でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E5%B1%B1_%28%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%29

火山の噴火は恐ろしいものですが、地中深くにあって到底、発掘できないような鉱物資源が、マグマとともに地上に噴出してきます。鉛、銅、銀、鉄、金などの宝庫で、死火山になれば、文字通り「お宝の山」となるわけです。港町・堺から奈良・二上山のルートを「丹比道」といったのは、そうした鉱山資源の運搬ルートであったからと考えられます。丹比道は「鉄の道」といってもいいわけで、実際に古代の堺には鉱山資源の加工に長けた「河内鋳物師」(かわちいもじ)という技術者集団がいて、奈良・東大寺の大仏鋳造などにも貢献しました。堺が中世に鉄砲産業の一大生産地になって、また江戸時代からは包丁産業、近代には自転車産業が盛んになるのも、こうした鉱山資源の街道ルートと、卓越した工人集団が生息していたことが大いに関係しています。古代の金属加工の技と伝統が、時代によって変遷しながらも、現代にまで脈々と生きているわけです。

それで「丹」という漢字を三省堂提供「大辞林 第二版」で調べるとこう書かれています。

(1)硫黄と水銀との化合した赤土。また、その色。辰砂。 (2)鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。鉛丹(えんたん)。 (3)薬のこと。特に不老不死の薬。「―を煉り、真を修し/読本・弓張月(続)」  (4)(1)(2)のような黄赤色。

ここで注目して欲しいのが(2)の「鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。鉛丹(えんたん)。」という部分。じつは丹というのは鉱物ですが「絵の具(鉛丹)」にもなるんですな。丹比道は丹(絵の具)が行き来する道で、そこに絵描きを生業とする一族が出てきたとしても何ら不思議ではありません。俗に「河内絵師」と呼ばれているのですが、そうした絵描き一族の中から生まれた天才が巨勢金岡卿であったというわけです。

ちなみに堺には「鉛市」という会社があって、会社沿革によると創業は応永2年(1395年)で、600年以上もの歴史を有する老舗企業だそうです。泉州・堺の鉛屋市兵衛という人が、明の人から「鉛丹」の製法を学んだことが始まりやそうで、日本で始めて「鉛丹」を製造、販売した会社で、江戸幕府にも専売を許可されたとか。
http://www.namariichi.co.jp/
http://www.namariichi.co.jp/company/history.html

また「鉛丹」は「朱色(赤色)」ですが、用途としては陶磁器の釉薬、漢方薬などに用いられていましたが、とくに朱色は「魔よけ」の色として神社仏閣に多く用いられました。現在でも世界遺産の厳島神社(広島県)、下鴨神社(京都市)などは、堺の鉛市が指定業者になっています。厳島神社や下鴨神社にいったさいは「堺の鉛市の鉛丹を使っているのか…」とマニアックに鑑賞して楽しんでください。
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/index.html
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/home/

たかが絵の具なんですけども、色んな歴史やドラマが含まれています。絵の具なだけに「塗り込められている」といったほうがいいかな…って落語のサゲみたいになりました(笑) おそまつ。

【参考画像1】
11
「日本元祖 丹製造所」と書かれた鉛市のチラシ。幕末・明治のものです。

【参考画像2】
21
「住吉・堺豪商案内記」より。鉛市では「丹白」も製造、販売しておりました。要するに「白粉(おしろい)」です。堺は港町で乳守、栄橋、龍神といった色街も古くからありましたから。白粉などもようさん売れたみたいです。

※上記の画像はこちらから引用しました。
引札と『住吉・堺豪商案内記』


カテゴリー: 雑感 タグ:

千年、働いてきました

2007 年 12 月 28 日 Comments off

012
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047100765/

「世界最古の企業」ってどこにあるか知ってますか?答えをいいますと大阪にあります。聖徳太子が建立した日本最初の官寺・四天王寺を施工した「金剛組」(大阪市天王寺区)。これが世界最古の企業で、創業はなんと「578年」やそうです。1578年やないですよ。578年。日本の年号でいうと「敏達天皇6年」。「千年、働いてきました」は、金剛組のような日本の老舗企業の取材記事をまとめた本なのですが、金剛組は1000年どころか、よくよく考えると「1500年ぐらい働いてる」わけで、どれだけ古いねん?って話ですな。
http://www.kongogumi.co.jp/index.html

この本によると日本には創業200年を越える会社が3100社ほど存在するそうで、全世界の老舗企業の約40%を占めてるそうです。ちなみに欧州ではイタリア・フィレンツェの金細工メーカー「エトリーニ社」が創業1369年で最古。アジアでは中国の漢方薬製薬会社の「北京同仁堂」が創業1669年やそうで、大阪の金剛組には到底といいますか、はるかに及びません。

要するに日本は「企業体」ってのが長く続くお国柄なんですな。理由としては色々とあります。島国で、基本的に戦争が少ない国であったこと。「ものづくり」を非常に尊重する民族であったこと。「ものには命が宿る」とする「アニミズム」の信仰が浸透していること。「もの」を生み出す「職人」(職人文化)が、大切にされてきたこと。「同族経営」(団結心が強い。互いを支えあう構造にある)でありながら「他の血族」(新しい技術や優れた文化)を易々と受け入れる傾向にあること…などです。ひとつひとつの詳細な事例を挙げていくと大変ですし、詳しくは本に書いてますので、まぁ、みなさん、読んでみてください。

師走で慌ただしいのですが、こういうときこそスケールの大きい本を読むに限ります。


カテゴリー: 雑感 タグ:

挑戦する中小企業 in OSAKA

2007 年 12 月 23 日 Comments off

014
面白い本を教えてもらいました。「挑戦する中小企業 in OSAKA」

日本全国には約27万社の中小企業が存在するそうですが、そのうち約2万4000社が大阪に存在します。これは東京(2万1000社)や愛知県(2万2000社)よりも多く、都道府県の面積と事業所の数を比較すると、東京都の約1.3倍、愛知県の約3倍にもなるとか。大阪は日本最大の「中小企業の町」なんですな。また中小企業といえども日本国内トップはおろか、世界トップシェアの「オンリーワン企業」も決して少なくありません。
http://www.pref.osaka.jp/kogyo/mono/mono001.html
http://www.pref.osaka.jp/aid/naniwa/naniwa2003/n2003_3_5.pdf

大阪の中小企業が支える、ものづくり文化は日本経済再生のキーワード。この本、よーさん売れて欲しいです。
http://cart05.lolipop.jp/LA06686589/?mode=ITEM2&p_id=PR00101425489


カテゴリー: 雑感 タグ:

大坂堂島米会所物語

2007 年 12 月 19 日 Comments off

015
島実蔵氏著。時事通信社。

「堂島米会所」て、ご存知ですか?世界初の公設先物取引市場。
http://www.ose.or.jp/profile/pr_reze.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E4%BC%9A%E6%89%80

じつは「Dojima Rice Exchange」は国際的に有名で、実際に米国版wikipediaで「dojima」と検索すると「the forerunners to a modern banking system」(現代的な銀行システムの先駆け)と記述されて登場します。世界最大の先物取引市場のシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)の見学ツアーに行くと「この取引所のルーツは日本の先物取引所であり大坂が発祥の地です。私たちは世界で最初に整備された日本の市場を参考に開設されました」というガイドの音声テープが流されるそうで、玄関ホールにも堂島米会所を顕彰する銅版があるとか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dojima
http://en.wikipedia.org/wiki/Chicago_Board_of_Trade_Building

江戸時代の日本全国の米相場は大坂商人が決定していました。前田藩・金沢100万石とか伊達藩・仙台62万石とかいいますが、この石とは米のことです。米は大名や地域の生産力、経済力の指標でしたが、その相場は、幕府ではなくて大坂・船場商人が握っていました。どうやって握ったか?というと堂島米会所の先物取引で米の収穫前に、米を「証券」で買いつけたり、売ったりしたんですな。

米は不作もあれば豊作もあって価格は常に不定です。それを船場商人が予測して、新潟からなんぼ買いつけて、土佐になんぼで売りつけてと、すべて収穫前にやりくりしていたわけです。よく大坂のことを「天下の台所」といいますが、なぜ大坂に米が集められたか?というと、先物証券で米を「買った!」「売った!」していたから日本全国から大坂に米が集まってきたわけです。

堂島米会所には2つの米市場があって、1つは「正米取引所」といって、実際に米を取引する市場で、もう1つは「帳合米取引所」といって「帳簿の米(まだ収穫前で帳簿の上でしか存在しない米)を合わす取引所」・・・つまり先物取引の市場でした。幕府は正米取引所には参加してたんですが、帳合米取引所には決して参加しようとしませんでした。「帳簿の米なんて得体の知れないもので取引なんかできるか!」とバカにしてたんですな。経済オンチといいますか、これが幕府の限界でした。

じつは江戸中期から幕府財政はガタガタになります。江戸初期には考えられなかったことですが、幕府や全国各地の大名が新田開発に取り組んだ結果、日本全国の米の生産量が日本全体の総消費量を上回り、時には「米余り」「米のインフレ状態」になったわけです。こうなると「米の価格」は下落する一方で、米に依存する経済機構の幕府や大名は一生懸命に米を増産するんですが、どれだけ米を生産しても米の価格が安くなって儲からない。

そこで必要なのが先物取引で、じつは先物取引には米の生産量を調整する役割もあります。先物は例えば「1年後に私は米を100石買いますよ」というような取引形態です。「買いの注文」が殺到すれば需要が増えるから米の価格は上がります。しかし逆に「1年後に私は米を100石売りますよ」と「売りの注文」が殺到すれば供給が増えて米の価格は下がります。こうやって先物売買を済ませていると、収穫前なのに「1年後の米の価格」がおぼろげながら見えてきます。「1年後の米の価格が判る」となると、「米が高く売れる」となれば精を出して米を生産しようとするし「米の値段が安くて売っても儲からない」となると米の生産よりも何か違う特産品に精を出そうとします。「米あまり」「米インフレ」の状態を解消するには先物取引の調整システムが必要不可欠やったんですな。

実際に大坂・船場商人は「旗降り通信」「のろし」などで情報網を張り巡らせて、米の相場はもとより生産地の「晴れ」「雨」「災害」「事件」などを刻一に記録しておりました。米の豊作や凶作を予測していたわけで、日本全国各地に「旗振山」「旗山」「相場山」「相場振山」という妙な名前の山が数多くあるんですが、これらは大坂・船場商人の旗振り通信の拠点だったところです。

0 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=223

対して当時の幕府の情報伝達方法は飛脚でした。お役所仕事ですから書状にしてサインとかハンコがないと有効ではないんですな。「忠臣蔵」では浅野野長矩が吉良上野介を斬りつけた「江戸城松の廊下の事件」を伝えるために江戸から赤穂まで620キロをわざわざ飛脚が走ってます。「4日間でたどり着いた」といわれてますからこれまたスゴイ体力ですが、旗振り通信なら2時間あればニュースが届けられたといいます。相場の世界は一分一秒を争いますから飛脚では情報が遅すぎて役に立ちません。

大坂・船場商人は「堂島米市場」や「旗振り通信」といった幕府には到底思いつかない独創的アイデアで、日本の流通経済を牛耳ったわけです。先人というのは偉大といいますか、大坂・船場商人の知恵には驚かされますな。

次はこれを読もうと思います。
http://book.jiji.com/books/publish/p/v/249


カテゴリー: 雑感 タグ:

堺探検クラブ「堺旧港まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 17 日 Comments off

堺旧港_01

①堺駅
近畿の駅100選。江戸時代は戎島附洲新田(大和川の堆積土砂)で、明治21年(1888)に市最古の駅として開業。当時は吾妻橋駅とも呼ばれました。構内に「大正の広重」こと吉田初三郎(1884~1955)が河盛安之介市長の懇嘱で昭和10年(1935)に描いた「堺市鳥瞰図」(堺市博物館蔵)と、江戸初期の「南蛮屏風」(同館蔵)の壁画が掲示されています。

②堺駅観光案内所
南海堺駅ビル1F(9:00~18:00)、堺駅西口改札横(10:00~19:00)の2箇所あります。堺観光ボランティア協会のガイドさんが観光相談にお応えしてくれます(10:00~16:30 ※第1月曜日・年末年始除く)。またレンタサイクル(1日300円・貸出時は運転免許証など本人証明必要)も行っています。

③川の駅・堺(観濠クルーズSakai乗船場)
自由都市・堺の象徴=環濠の名残である内川・土居川で、観光船を運航するNPO法人観濠クルーズSakaiの乗船場です。バーテンダーや線香屋の若旦那、主婦など多彩なガイドさんによるクルージングが楽しめます。※運航期間:3月末~11月の土日 所用時間:約50分 定員:大人18名 料金:大人1000円・小人500円(小学生以下) 予約・問合せ:072-229-8851(受付時間10:00~17:00)

④南蛮橋(南蛮人像)
堅川に掛橋。南蛮人像が設置されています。中世・堺は日明、南蛮貿易港として栄え、数多くのポルトガル商人や宣教師が来堺しました。多彩な文化交流から火縄銃、線香、三味線、芥子餅などが生まれ、堺の名産となりました。

⑤堅川
宝永元年(1704)に大和川付替で土砂が溜まり、堺の港湾機能に支障が出ました。浅草商人・吉川俵右衛門は、奈良~江戸間の材木中継港として堺港復興を訴えて、堺商人と協力して修築を開始(寛政2年・1790)。暴風雨に遭難しながらも約20年がかりで工事を遂行、堺旧港の原型が形作られました。堅川は船が出入りする川口ですが、その工事は町衆総出の砂持興業で「町中追々砂持手伝とて、のぼり吹きしめ、花やかに仕立て、ばば、女、子供にいたるまで南北残らず出候。(中略)二万余人の人数、みなみな波止前にて太鼓・鐘・いろいろ鳴り物にてはやし、先代未聞の賑わひ、筆につくしがたく」と「堺代々御奉行記」にあります。吉川俵右衛門(江戸=東=吾妻)の功績を讃えて、内川に吾妻橋が架けられています。

⑥龍神橋
天保9年(1838)架橋。大和川付替で堺港は寂れる一方なので、天明6年(1786)越後の龍沢山善法寺の僧(注1)が港復興祈祷を行うと、日没後に海上に燈明が煌めきました。これぞ「龍神の霊験」と評判になり、吉川俵右衛門の築港事業で出来た新地を龍神と名付けました。遊郭、芝居小屋、御茶屋などが並び、「龍神よいとこよい酔心地 むかし隆達トントン拍子 今は小唄の音を聞きや可愛い いとしお方の花だより 龍神よいとこよい廓」といった粋な「龍神小唄」(作歌:食満南北 作曲:杵屋和吉 振付:藤間門壽郎)が流れる新地として大いに繁栄しました。(注1)出羽庄内善宝寺(龍神尊)の僧という説もあります。37日間の祈祷後、経文を石に刻んで海中に埋めると土砂が退散して港が繁栄を取り戻した…というものです。

⑦二世中村富十郎住宅址
二世中村富十郎(1786―1855)は初代市川甚之助に入門、後に三世中村歌右衛門の門弟に。頭角を現して天保4年(1833)には大坂角之芝居で三世中村松江から二世中村富十郎を襲名しました。天保13年(1842)「役者投扇曲」では「若女形巻軸白極上上吉」の位付で「難波の太夫」と呼ばれて「江戸の飾海老」こと七世市川団十郎と並ぶ名女形でしたが、質素倹約が旨の天保改革で豪奢な生活を咎められ、摂津・河内・和泉から追放されました(団十郎も江戸十里四方追放に)。その後、天領(御免地)の堺に移住し、当初は戎之町大道で小間物屋・八幡屋を営みますが、才を惜しんだ新地世話方・松原武次郎の説得で、「娘道成寺」の白拍子などを新地北芝居(龍神橋通2丁)で演じて舞台復帰。大坂はもとより京の三条紅粉平といった富十郎贔屓が押しかけ、初日から満員御礼の大入り。また堺奉行より「旅役者取締役」に任命され、以後、堺を拠点に京、伊勢、名古屋、江戸などで活躍。嘉永2年(1849)には京都北側芝居で七世市川団十郎、三世尾上菊五郎と共演しています。安政元年(1854)には評判記の位付で「無類」となり、「堺の大太夫」とも呼ばれましたが、安政2年(1855)に堺で没。大小路東向井領に葬られ、本成寺(寺地町東4丁)、正法寺(大阪市中央区中寺町)に詣墓があります。

⑧龍神駅跡(現・コンフォートホテル堺)
明治36年(1903)、大浜公園で第5回内国勧業博覧会開催。堺水族館・大浜潮湯・大浜少女歌劇などが出来て、大正元年(1912)堺駅南方500メートルに龍神駅が開業しました。龍神新地にも近く、殷賑を極め、戦前は市最多の乗降客数で特急・急行は堺駅を通過して龍神駅に停車するほどでした。戦災後は旅客営業は龍神駅のみで堺駅は貨物駅でしたが、昭和30年(1955)に両駅を統合。龍神駅(現・コンフォートホテル堺)を堺駅として使用しましたが、昭和60年(1985)南海本線高架化で現・堺駅へ移転しました。バスロータリー中央部の「南蛮船」は堺の彫刻家・岡村哲伸氏の作品で、氏は堺市制110周年記念事業として龍女神像(北波止町)制作も手がけています。

⑨神明神社
天保3年(1832)に佐々木長門なる人物が稲荷明神等を祀って旭社としましたが、天保12年(1841)に堺奉行・水野若狭守忠一が天照大御神と豊受大御神を勧請。宿院町・布屋源治郎から敷地を寄進されて神明社と改めました。「堺のお伊勢さん」ともいわれます。境内には天保4年銘、天保12年銘の石灯篭や、龍神新地の遊郭の楼主が寄進した玉垣が残っています。また蘇鉄山山岳会の活動拠点で、一等三角点が設置されている日本一低い山・蘇鉄山(標高6.84mメートル。大浜公園内)に登れば「蘇鉄山登山認定証」(有料。1枚20円)を発行してくれます。

⑩龍神堂
龍神祈願で堺港が復興したと喜んだ新地の人々は、天保6年(1835)に善法寺を建立、龍神堂と絵馬堂を造営しました。しかし明治維新後に廃寺に。龍神堂だけが旭館(⑬旭橋の項目を参照)内に残り、昭和5年(1930)国道26号線敷設で当地に移りました。全国各地の郷土玩具を描いた堺の画家・川崎巨泉(1877-1942)が遺した自筆写生画帳「人魚洞文庫」に「堺大浜通一丁目龍神堂奉納絵馬 昭和六年九月写」とクジラの絵馬が写生されています。

⑪堺魚市場
古来より堺は漁業が盛んでした。奈良・京都への貴重な海産物供給地で、堺魚商人の中には春日社供菜人(春日大社には天文7年・堺魚屋弥次郎寄進の石燈篭が現存)や御所の禁裏御用などもいました。供菜人、禁裏御用は関銭(関所の通行料)免除で、海産物を納める代償に諸国を自由に通行する特権を得て、回船業(流通業)などへも進出しました。堺魚市場は代々、魚商人を営んだ名家・久家が秀吉から土地(現・英彰小学校付近)を賜ったのが起源で、江戸時代には魚市場(紺屋町浜=少林寺町西4丁付近)と海船魚市(柳之町浜=柳之町西3丁付近)が開場。元禄8年(1695)には問屋30軒、仲買600軒と大繁盛しましたが明治以降に現在地(栄橋町)に移転しました。鎌倉期に住吉大社に魚を奉納して豊漁祈願し、市をたてたのが起源の大魚夜市(毎年7月31日に大浜公園で開催)は堺の夏の風物詩として知られています。

⑫旭橋の橋柱(アサヒビールゆかりの地)
天保5年(1835)に掘られた旭川に架橋。昭和30年(1955)に川は埋立てられ橋柱のみです。嘉永(1848〜1853)頃に描かれた「泉州堺湊新地繁栄之図」(堺市立中央図書館蔵)には、旭橋近くに「朝日の家」が記されていますが、堺屈指の御茶屋で有名でした。その後、明治21年(1888)に旭橋西詰に4000坪の大庭園を有する政財界の名士社交場「旭館」が開館。鳥井駒吉(1854~1909 堺の酒造家)が会議として使い、翌年、大阪麦酒会社(現・アサヒビール株式会社)を創業。この旭館が「アサヒビール」の由来という説があります。またビール発売当初の「波に朝日」ラベルは、「浪花百景」などを手がけた堺の浮世絵師・中井芳瀧(1841~1899)が描きました。旭館は昭和6年(1931)の国道26号開設時に閉館。堺市役所前の大蘇鉄は旭館から移転したものといわれています。

⑬堺事件発生の地
慶応4年(1868)、大坂入りしたフランス領事を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスの水兵が堺に上陸したところ、警備中の土佐藩軍艦府は「通達がない」と上陸を阻止。言葉が通じない混乱の中、フランス兵が藩旗を倒そうとしたため、土佐藩側が発砲。水兵11名を殺傷、溺死させました(堺事件)。フランス公使レオン・ロッシュは猛烈に抗議して関係者20名の切腹、15万ドルの賠償金を要求。国力差から明治政府は全ての要求を受諾。当初、関係者は29名いたので土佐稲荷神社(大阪市西区)で籤を引いて切腹者を選抜。妙国寺(材木町東4丁)で刑が執行されますが、切腹のあまりの凄惨さに軍艦長デュプティ=トゥアールは11人目で中止を要請、結果として9人が助命されました。自刃した藩士は宝珠院(宿屋町東3丁)に葬られ、国指定史跡「土佐十一烈士墓」となっています(同院には後にフランス兵の慰霊碑も建立)。森鴎外「堺事件」、大岡昇平「堺港攘夷始末」、司馬遼太郎「新装版 俄 -浪華遊侠伝-」などの小説の題材にもなっています。

⑭パンゲア
元々、工場だった建物を改造してカフェに。海が見えるテラスが人気で、堺旧港・龍女神像の彼方に沈んでいく夕陽を眺めながら、美味しいお食事、お酒が楽しめます。NPO法人SEINの運営で堺市民の活発なコミュニティ活動の情報なども。堺探検クラブのマップも入手できます! ※営業時間:平日15:00~23:00 土曜12:00~23:00 日曜12:00~22:00(月曜日定休)TEL:072-222-0024

⑮与謝野晶子像
与謝野晶子(1878~1942)生誕120年記念、堺陵東ライオンズクラブ結成25周年記念アクティビティとして設置されました。「ふるさとの 潮の遠音の わが胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」(歌集「舞姫」より)の歌が刻まれています。


カテゴリー: 雑感 タグ:

堺探検クラブ「三国ヶ丘まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 17 日 Comments off

三国ヶ丘_01

三国ヶ丘_01

①長尾街道
堺から方違神社、河内国府、二上山などを経て式内社・長尾神社(葛城市)に至ります。古代の大津道の後進とされています。江戸時代には大和街道、奈良道などとも呼ばれました。日本書紀に「天武元年(672)に大海人皇子に味方した大伴吹負軍が高安城を占拠すると翌朝、大津道と丹比道(竹内街道)から大友皇子の軍勢が押し寄せてきた」という記述があります。

②方違神社
社伝では崇神8年(紀元前90)に天皇の勅願で物部大母呂隅足尼を茅渟石津原に遣わして須佐之男神を祀ったのが起源です。201年の忍熊王の乱では、神功皇后が三筒男神の教えで八十平瓮を作って方災除けを行って勝利しました。応神帝に方違大依羅神社と名づけられ、仁徳帝、孝徳帝、空海、平清盛、後鳥羽帝、徳川家康などが敬ったと関連文献にあり、明治元年(1868)の東京遷都では17日間の祈祷を行いました。摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の境にあるので三国山、三国の衢、三国丘と称され、万葉集にも「三国山 こずえに住まふ むささびの 鳥まつがごと われ待ち痩せむ」と出てきます。どこの国にも属さない聖地で、これが堺(境)の地名の由来ともいわれます。また神功皇后が方違神社南の鈴山という丘に黄金の雞を埋めたので、毎朝、美しい金鈴のような雞声が響き渡ったといい、その故事から幸雞の鈴(土鈴)を授与しています。

③旧天王貯水池
明治43年(1910)に堺初の上水道施設として野口広衛の設計で建設。大阪府下では大阪市(明治28年・1895)に次ぎ、総面積662平方メートル、約6万人の給水を補いました。正面入口は水道先進地の欧州にならって凱旋門風で、内部天井も優美な半円形のヴォールト架構です。貯水槽周囲は盛土で直射日光を遮り、細菌繁殖を防いで水質維持を図りました。また堺は良質な粘土が取れるので優れた瓦職人が数多くいましたが、明治以降は煉瓦職人として活躍、旧天王貯水池の煉瓦も堺産煉瓦が使われていると考えられます。昭和37年(1962)に使用停止。半世紀以上使用され、美しいデザインと優秀な施工技術は建築的価値が高く、平成13年(2001)に国の登録有形文化財に指定されました。

④反正陵古墳(田出井山古墳)
百舌鳥古墳群の北端にあります。墳丘規模は全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約14メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートルで、百舌鳥古墳群7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、出土した埴輪などから、大仙古墳(仁徳陵古墳)より新しい、5世紀後半に造られたと考えられています。一重の盾型周濠がめぐっていますが、かつて二重濠があったことが確認されています。百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。

⑤紅谷庵
大永年間(1521~1527)に堺の豪商・紅屋喜平が建て、牡丹花肖柏(1443~1527)が住んだことがあります。肖柏は室町期の連歌師で名門公家・中院通淳の子です。8歳のとき、無言で勉学する肖柏に「物をもいはで物習ふ人」というと「くちなしの花の色葉はうつすらむ」(くちなしの花は無口=無言、色葉をうつすはイロハを筆写する=勉学するという意味)と返して世間を驚かせた逸話があります。連歌師・宗祇(1421~1502)に師事して後土御門帝の内裏歌合にも参加。当代一流の宮廷文化人でしたが、応仁の乱(1467~1477)で摂津の大広寺(池田市綾羽町)に移り、「三愛記」(花・香・酒の風流記)を記述しました。師・宗祇が没したさいは、誰もが宗祇の秘伝を授かったと称して連歌界が大混乱したので後柏原天皇の勅で肖柏が式目(連歌の作法)を作り、事態を治めました。永正15年(1518)に摂津にも戦乱が及んだので紅谷庵に。河内屋宗訊、下田屋宗柳、坂東屋宗椿といった堺の豪商が集まる一大サロンを形成して、ここから堺伝授(連歌)、堺流(書)といった流派が生まれました。門人に囲まれながら肖柏は「角に金箔を施した牛に乗って往来」(扶桑隠逸伝)「牛の角に蹴鞠を結びつけて人々と蹴鞠を楽しむ」(類聚名物考)といった風雅な生活を送り、84歳で没しました。墓は南宗寺(南旅篭町)にあります。

⑥向泉寺閼伽井跡
聖武天皇勅願で天平(729~749)頃に行基(668~749)が建立した三國山遍照光院向泉寺の跡碑です。万病に効く閼伽井(閼伽とは仏前の供水のこと)が湧き、本堂が井戸(泉)に向っていたから、または寺院が和泉国に向っていたから向泉寺と称しました。王子社、方違社、東原天王社の祭礼の神水にも用いられましたが、永正年間(1504~1520)に兵火に遭い、次第に廃れていき、享保頃(1716~1735)に廃寺となりました。

⑦竹内街道
堺から二上山を越えて奈良・葛城に至ります。日本書紀の推古天皇21年(613)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」と記される日本最古の官道です。かつては丹比道(丹比野を横断するので)とも、また当麻道(当麻寺に至るので)ともいいました。飛鳥時代には遣隋・遣唐の使節や留学生らが往来するシルクロードで、経由する太子町界隈には聖徳太子廟の叡福寺や用明、推古、孝徳陵、小野妹子墓といった史跡が集積しています。文献上は7世紀に登場しますが百舌鳥古墳群や古市古墳群をつないでいるので古代から人々の往来があったと推測されます。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう」と記しています。

⑧西高野街道
堺から大阪狭山市、河内長野市、紀見峠を経て高野山に至ります。平安後期から参詣道として使用されたと考えられています。江戸時代には堺港と高野山との流通経路として大いに賑わいました。安政4年(1857)に茱萸木村の百姓人・小左衛門と五兵衛が発起して13本の一里塚道標を建立(堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一理堂標石まで)、すべて現存しています。また「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたのを契機に西高野街道観光キャンペーン協議会が発足。ウォーキングイベントを実施しているほか「西高野街道ウォーキング徹底ガイド」(堺東観光案内所にて販売:1部100円)なども発行して西高野街道の魅力創出に努めています。

⑨榎宝篋印塔
慶安元年 (1648)に僧・夢幻永海が勧進して建立。花崗岩製で高さ約4.39メートルあります。昭和30年(1955)の解体修理で塔内部から宝篋印陀羅尼経、塔建立の趣意書、寄進者の氏名、金額などを記した奉加帳が見つかり、塔を置いたのは道を行き交う多くの人々との良縁を結びたいと記されていました。竹内街道、西高野街道沿いにあり、350年以上の長きに渡って、数多くの旅人たちを見守ってきた歴史の生き証人といえます。

⑩堺東観光案内所
パンフやマップなど堺の観光情報が満載。観光ボランティアも常駐(10:00~16:30 第1月曜日・年末年始除く)で、堺の観光相談にお応えしてくれます。堺市優良観光みやげ品を販売しているほか、1日300円でレンタサイクルも行っています(貸出時には運転免許証など本人確認が必要です)。堺観光の際はぜひお立ち寄り下さい。※住所:堺市堺区中瓦町2-3-24博愛ビル1階/電話番号:072-238-7174/営業時間:9:00~19:00/休館日:年末年始 /駐車場:無し

⑪堺市役所21階展望ロビー・喫茶ミエール
堺市役所最上階にあります。地上80メートル、360度の展望が楽しめる回廊式ロビー(入場料は無料)で、大仙古墳、六甲山、関西国際空港、生駒・金剛山、大阪城などが見渡せます。ゆっくりくつろげる喫茶ミエールもあります。


カテゴリー: 雑感 タグ: