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2007 年 11 月 16 日 のアーカイブ

堺探検クラブ「七道まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 16 日 Comments off

七道_01

①放鳥銃定限記と鉄砲鍛冶射的場跡
大正3年(1914)に運河掘削工事現場から漢文碑・放鳥銃定限記が出ました。「鉄砲師範・小濱民部丞嘉隆は文武両道で試射場を作って砲術研究を重ねた」とあり、寛文4年(1664)に砲術家・川名金衛門忠重が立てたものです。鉄砲鍛冶射的場跡は大正13年(1924)建立(駅整備などで当地に移転)。かつて七道には周囲約9メートル、高さ約1.8メートルの鉄砲塚(現存せず)があり、鉄砲制作すると塚から大和川の的に試射しました。鉄砲にゆかりが深い土地で駅界隈は鉄砲町ともいいます。

②河口慧海顕彰立像
河口慧海(1866~1945)は仏教学者、探検家で浜筋山伏丁(北旅籠町西3-11)の樽職人・善吉と常の6人兄弟の長男です。本名・定治郎。清学院、錦西小で学びますが「職人に学はいらぬ」と父の方針で退学。しかし慧海は懇願して儒者・土屋鳳州の私塾・晩晴書院で学び、釈迦一代記を読んで出家を志します。父は「長男の出家は困る。代りに弟を出家させる」と三男の岩吉、四男の善七を出家させて阻止。鬱屈した慧海は徴兵令改正反対で天皇直訴を企てたり、宣教師からキリスト教を学んだり、堺市の小学校で教員をしたりしますが、結局、東京の黄檗宗五百羅漢寺に寄宿して哲学館(後の東洋大学)に入学。明治23年(1890)に得度して同寺住職になりますが日本仏教界の腐敗に怒って辞職。仏教原典入手のためにチベット行きを決心して明治30年(1897)に堺や大阪の友人の支援を受け、神戸港から出発しました。当時、チベットは鎖国で密入国者は死刑でしたが、クン・ラ峠(標高5411メートル)越えで明治34年(1901)、日本人として初めてラサに到達。ラサ三大寺院のひとつ・セラ寺で学びますが素性がばれて翌年、脱出。帰国後「西蔵旅行紀」(Three Years in Tibet)を発表すると一大センセーションとなって英訳も出ました。その後、チベットが清に侵略されてダライ・ラマ13世が亡命すると慧海はインドで接見。再訪を許されて大正2~4年(1913~1915)にチベット入りして、多くの仏典、仏像、仏画、仏具、民俗資料、動植物・鉱物標本を入手しました(東北大学に保管)。以後は仏典研究を続け、晩年は「蔵和辞典」編集に没頭しますが、1945年2月に世田谷の自宅で逝去。銅像はチベットに向かう慧海で、昭和58年(1983)に、堺ライオンズクラブ創立25周年記念事業として堺の彫刻家・田村務氏によって制作されました。

③菅原神社御旅所
「堺の天神さま」こと菅原神社(戎之町東)の御旅所です。社伝では菅原道真(845~903)が太宰府より手彫の木像を海へ流し、それが摂津国北の庄・海船濱に流れ着き、長徳3年(997)に天台宗威徳山天神常楽寺の僧徒が天神社を創建して木像を祀ったことが社の縁起です。御旅所内の石灯籠に寄進者「樽善」(樽屋善吉。慧海の父)が刻まれています。

④千日井
七道は、かつて七堂濱と呼ばれました。行基(668~749)が神亀元年(724)に開いた清浄土院高渚(たかす)寺の七堂伽藍があったためで、千日井は、その寺の井戸といわれています。上水道整備がされるまで地元民の優れた飲料水源でした。「此の井は行基菩薩七堂構榮の地に鑿掘したるところと傳ふ 今や蒲生氏及び其一族の特志により修理の巧を竣へ清泉滾々として盡きす 汲む人其遺澤を憶へ 四天王寺現薫 大僧正 大應 撰書」の石碑(1930年建立)と、行基石像板(1961年 近泉紡績会社社長 中山彌左衛門建立)、文政9年(1826)に神南辺道心が発起、宗見寺真誉上人が導師、付近の農民が世話人で建立した岩喜兵衛(土居川・千日橋の建立者)と水難者の供養碑があります。道心は「燗鍋弥兵衛」と呼ばれた堺の鋳物師ですが酒に溺れて妻を病死させ、育児も放棄。荒れた生活を送りますが、僧となった息子に「父を救えない私を殺して下さい」と泣いて懇願されたことで罪を悟って仏門に。以後、堺、大阪、奈良、和歌山で自ら汗まみれになって井戸、橋、堤防、道標などを作って困窮者救済に尽力。嵯峨御所から錫杖を下賜され、聖者と崇められながら天保12年(1841)に没しました。大阿弥陀経寺(寺地町東4丁)に墓があります。

⑤清学院
元禄2年(1689)の堺大絵図には山伏清学院とあります。江戸末の建築で不動堂、庫裏、門は国の登録文化財です。修験道場ですが幕末から明治5年(1872)まで習字手習いの寺子屋として使用され、慧海も学びました。

⑥鉄砲鍛冶屋敷(内部非公開)
「鉄砲記」(1606年頃・南浦文之玄昌著)には、天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商客之徒・橘屋又三郎が来島して鉄砲製法を学び、堺に伝えて「鉄砲又」と呼ばれたとあります。和歌山市・金剛宝寺には「那賀郡堺鋳工橘屋又三郎」銘の天正3年(1575)の梵鐘があり、又三郎は鉄砲、梵鐘など金属を扱う鋳物師と推測されています。いずれにせよ鉄砲製法が堺に伝わると堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地になりました。鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代から続く鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅で堺大絵図(1689)にも記載され、最古級の町家建築かつ堺鉄砲の生産現場が残る貴重な建築物で、市の指定有形文化財です。多くの鉄砲史料や日本一といわれる高さ1メートル、長さ2メートル余りの吹子が保存されています。

⑦北之橋跡
中世・堺は環濠自治都市でした。環濠は秀吉によって埋められましたが江戸初期に復活。その環濠の紀州街道出入口に架けられたのが北之橋です。長さ7間(約12.7メートル)、幅2間半(約4.5メートル)の幕府管理の公儀橋で、大門と高札場がありました。堺市史によれば北之橋から南之橋(現在の少林寺橋)まで長さ24町37間(約2.7キロメートル)と記されています。

⑧高須神社
根来で初めて火縄銃を制作した芝辻清右衛門妙西の孫・理右衛門(?~1634。名は助延、号は道逸)ゆかりの神社です。理右衛門は慶長16年(1611)に銃身1丈(約3メートル)、口径1尺3寸(約39センチ)、砲弾1貫500匁(約5.6キロ)の我が国初の大筒を家康に納入。慶長19年(1614)大坂冬の陣でも家康に三匁五分玉の鉄砲500丁、六匁玉の鉄砲500丁を納入して戦場では火縄銃修理を行いました(豊臣方からも鉄砲500丁を受注しますが納入記録が残っていません)。以上の功績で元和元年(1615)に高須に土地を賜わり、社を建てました。境内北側になでると願いが叶うという萬願石があります。

⑨海船政所跡
永正元年(1504)、阿波守護・細川澄元の家臣・三好長輝(1458~1520)が阿波と京の中継として海船町に館を建て、孫の元長(1501~1532)の頃に完成しました。桜之町付近を中心に東西360歩(約650メートル)、南北720歩(約1300メートル)の大館で、大永元年(1521)には「政所」の号を勅されています。高楼があって四方を監視し、事が起こると鐘、太鼓を鳴らして郎党に知らせました。元長没後も長慶、義興、義継などが居住して摂ノ尼崎ノ城、泉ノ新堀城、岸和田ノ城、河ノ小山、古市ノ諸城(全堺詳志より)などを束ねる三好一族の本城的役割を果たしました。

⑩七まち町家会
「住の江の 和泉の街の 七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の道」と与謝野晶子にも歌われた七まち(七道)。幸運にも戦災を逃れて江戸時代からの建築物が数多く残っていますが、2009年、地域の町家や町並みの保存と活用を目指して有志が集まって「七まち町家会」を発足させました。町屋公開などの催しを行っています。

【A】水野鍛錬所…明治5年(1872)創業。明治時代からの鍛錬工房があります。戦後まもなくの法隆寺大改修のさいに、300年に一度かけかえられる国宝五重塔九輪の「魔除け鎌」を鍛造して奉納。法隆寺の1300年前ともいわれる古釘を集めて作った魔除け鎌を展示、実際に手に持つこともできます。鍛錬所前にあるのが榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡の碑で、勘左衛門は御用鉄砲鍛冶として家康に重用され、鉄砲鍛冶年寄の重職を務めました。榎並屋勘左衛門、芝辻理右衛門の両家に、分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)、榎並屋勘七(忠兵衛)、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(九兵衛、勘七没落後は三鍛冶)が堺の鉄砲鍛冶を統制しました。

【B】内田家住宅…明治前期の旧商家(醤油造り)。現在も住居として使用していますが、1階吹き抜け部分、2階作り付けの欅箪笥といった一部を不定期に公開しています。

【C】ろおじ…大正期の長屋を改装したギャラリー&茶店です。

【D】藤井刃物(まちかどミュージアム)…古い町屋の刃物工房で、現在の刃物作りを見ることができます。

【E】薫主堂…江戸末期の建物。創業明治20年(1887)で、120年以上になる天然香料を使った手作り線香の店です。店主は2002年に堺市から「堺ものづくりマイスター」に選ばれました。

【F】堺鉄砲館…町家を改装した火縄銃展示館です。火縄銃保存会会員による解説もあります。また鎧兜着用による若武者返信体験もあります(100円・限定20人) 

【G】鳳翔館…大正時代の町家を活用した展示&休憩スペース。館主が与謝野晶子のファンで、晶子の生家をイメージしています。

【H】七まちびいどろ・・・町屋の空間を利用したガラスギャラリー&とんぼ玉制作工房。とんぼ玉制作風景を見たり、個性的なとんぼ玉(模様の入った紐を通すことのできる穴の開いたガラス玉)制作体験ができます。


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堺探検クラブ「湊まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 16 日 Comments off

湊_01

①南海本線「湊駅」
明治30年(1897)10月に南海電鉄によって設置されました。出島浜に近く、戦前は海水浴客や大浜水上飛行場などで大いに賑わいました。出島浜の歴史は非常に古く、鎌倉時代に沖合に迷い込んだ鯨の捕獲に失敗して、漁師達が慰め合ったことがきっかけという「鯨まつり」が伝えられています。「くじらとろとて網まですいて くじら熊野へみなかえる 沖に見えるはくじらの山か おかへのぼせば黄金山」と鯨音頭を歌いながら、竹組みで作った模型の鯨を担いで出島浜から住吉大社まで練り歩くというもので、昭和29年(1954)の祭礼時は約27メートルの巨大鯨が奉納されました。

②与謝野晶子歌碑(湊駅前公園内)
湊駅前東通商店会が主体となって歌碑を建立しました。「ちぬの海 いさな寄るなる をちかたは ひねもす霞む 海恋しけれ」「夕されば 浜の出島の うたひめの 島田にまじり かはほりぞ飛ぶ」と湊、出島浜ゆかりの与謝野晶子の歌二首が刻まれています。

③旧堺紡績会社 変電所
明治29年(1896)、堺紡績会社の紡績工場が竣工して操業を開始。のちに阿波紡績、福島紡績と合併しましたが、紡績業界の斜陽化で昭和38年(1963)に木工工場となり、昭和51年(1976)にそれも移転しました。ノコギリ屋根の煉瓦造りの美しい工場群でしたが取り壊され、変電所の窓と外壁の一部を切り取ったモニュメントが保存されています。

④堺の穴子
かつて堺は「穴子屋筋」という通りがあったほど穴子漁が盛んで、「下関のふぐ 堺の穴子」と称される穴子の名産地でした。昭和3年(1928)の第5回内国勧業博覧会のさいに発行された旅行ガイドブック「堺市案内記」にも堺の名産として芥子餅、くるみ餅などと並んで「あなご料理」が記載されています。深清鮓さんはその伝統をいまに伝えてくれる老舗の穴子寿司専門店です。

⑤土居川
中世・堺は日本一の国際貿易港として繁栄し、堺の商人たちは戦国の争乱に巻き込まれないように環濠を作って自治都市を築きました。その後、秀吉によって環濠は埋め立てられ、大坂夏の陣の戦乱で堺は焼け野原となりますが、徳川幕府はすぐに堺の町を復興し、環濠も復活させました。これが現在の土居川で、土堤防(土居、土塁)を築いたことが川名の由来といわれています。マボラ、セスジボラ、メナダといった魚や、コサギ、ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、アオサギといった鳥の飛来も確認されています。

⑥紀州街道
大坂から住吉大社、堺を経て和歌山までを結ぶ街道です。古代には白砂青松の美しい海岸沿いにあって「岸の辺の道」と呼ばれ、江戸時代には紀州藩の参勤交代の街道としても栄えました。昭和48年(1973)には司馬遼太郎が「街道をゆく」の取材で紀州街道を訪れ、山崎理髪店(現・山崎たばこ店)の店主に船待神社を案内されています。司馬遼太郎は「中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っている」と堺のことを評しています。

⑦船待神社
かつては河内国大鳥群塩穴郷にあって天穂日命(土師氏・菅原氏の祖神)を祀る塩穴天神社と呼ばれ、延喜元年(901)1月には菅原道真公が太宰府へ下る船を待つあいだに参拝したといいます。その後、長保3年(1001)に管公の子孫・菅原朝臣為紀が管公を合祀し、船待天神社と改め、寛治年間(1087〜1093)に塩穴郷より当地に遷りました。管公お手植えの古松がありましたが昭和40年頃に枯死してしまい、その古木の下から発見されたのが腰掛石です。境内には明治40年(1907)に湊村字中筋にご鎮座していた村社・瘡神社も合祀されています。

⑧湊焼
奈良時代の僧・行基が熊取東部の丘陵地の白土を運び、湊の人に焼きものを教えたことが起源という伝説があり、また天正年間(1573~1593)に千利休の注文で点茶用の砂鍋を造り、その見事さに世人の賞賛を受けたと伝わります。しかし通説では楽焼の樂吉左衛門の弟・吉兵衛が、一子相伝の秘法を盗んだので勘当されて京都から来堺し、瀬戸物商の山本吉右衛門がパトロンとなって焼きものを始めたことが創始とされています。「本朝陶器攷證」によれば慶安年間(1648~1652)の話で、その後、吉兵衛は帰京して吉右衛門が焼きものを始め、18世紀末には交趾(ベトナム)風の釉薬が伝来して5代吉右衛門のときに「湊焼」を名乗り、15代吉右衛門は「火鉢屋吉右衛門」と呼ばれ、堺で知らぬ者がいないほどの名陶工でした。また明治に入ると山本家の職人頭が津塩吉右衛門と名乗って紀州街道筋に分家して、その住吉人形や南蛮人形、喜々猿(昭和55年・申年の年賀状切手の図案に採用されて日本全国に紹介されました)などは高く評価されています。また大鳥大社には明治13年(1880)奉納の「湊陶工吉右衛門」銘の陶額が、瘡神社に明治16年(1883)奉納の「能良遺法土師湊狂良」銘の陶額が現存しています。

⑨大内義弘供養塔(本行寺内)
大内義弘(1356~1400)は周防の守護大名でしたが、1371年に九州探題・今川貞世に協力して九州の南朝勢を討伐、1391年に山名氏が足利義満に叛乱した明徳の乱を鎮圧、1392年には南北朝合一に尽力して、和泉・紀伊・周防・長門・石見・豊前の6カ国を領しました。また李氏朝鮮や明との私貿易でも富を得ましたが、その勢力を恐れた義満と次第に対立。1399年、義満の挑発的な上洛命令を拒否して、鎌倉公方の足利満兼と通じて軍勢5000で堺に籠城。しかし関東管領・上杉憲定に説得されて満兼が挙兵を中止すると、義弘は孤立無援となり、幕府軍3万に攻められて壮絶な戦死を遂げました。俗にいう「応永の乱」で「応永記」という軍記にもなっていますが、のちに石川淳が応永の乱を舞台に「一露」という短編小説を書いています。

⑩瘡神神社跡
敏達14年(589)、瘡疾が流行したさいに、村民が医薬神・少彦名神を祀って祈願したところ、数多くの患者が治癒しました。霊験あらたかな神社として江戸時代には茶店が並び、門前市が出来て、参詣人が列を成したといいます。また瘡神社には牛と馬の2種類の絵馬があって、牛は生草を喰うので祈願時に牛の絵馬を、馬は枯草を食うのでお礼参り時に馬の絵馬を納める習慣がありました。瘡(くさ)を草(くさ)ともじったわけです。明治40年(1907)に鎮座していた湊村中筋から船待神社へと合祀されました。

⑪片桐棲龍堂(内部非公開)
創業400有余年の伝統老舗漢方薬局で、敷地内には江戸時代の伝統的建築物が数多くあり、主屋・東ノ蔵・中ノ蔵・摩利支尊天神社廟・西ノ蔵・洗い場・煉瓦塀は登録有形文化財となっています。また西ノ蔵は日本では数少ない漢方医薬専門資料館として国内外の専門家から高い評価を得ています。※内部非公開で、現在も店舗として使用されていますので、外観からの見学のみでお願いします。

⑫風車
明治以降、諸外国の輸入綿によって泉州の綿業は打撃をうけ、湊から石津にかけてはミツバ、ホウレンソウ、キクナといった野菜栽培を始めましたが、地域一帯は砂質土壌で大量の灌漑用水が必要でした。そこで大正期に地元の和田忠雄氏、高野長次郎氏、中尾正治氏らが、オランダ風車をヒントに、浜風を動力とした風車による地下水の組上げを考案。以後「堺の風車」は急速に普及して、1965年頃には400 基近くの風車が林立しますが、高度経済成長期に入ると農業地縮小やスプリンクラー導入などで風車灌漑は衰退し、現在では消滅してしまいました。新湊小学校前にある風車はレプリカで、湊の歴史文化を伝えるものとして保存されています。

⑬塩穴通
正式には堺市道「出島旭ヶ丘線」ですが、東に進むと「塩穴交差点」(大阪府道61号堺かつらぎ線)に出ます。承平年間 (931~938) に源順が編纂した辞書「和名類聚抄」にも「之保乃阿奈」(シオノアナ)という記述がありますが、湊地域はかつては和泉国大鳥郡塩穴郷に属していました。和銅元年(708)には元明天皇の勅命で塩穴寺が建立されたという記録もあります。また寛徳2年(1045)の藤原定頼の歌集「権中納言定頼卿集」には「さか井と伝所に しほゆあみに おはしけるに」とあって、当時の堺は万病に効く塩湯浴の名所として知られていました。現在でも湊には湊潮湯(関西唯一の海水のお風呂屋さん)などがあります。

⑭天下一御壷塩師堺湊伊織
天和3年(1683)に衣笠一閑が著した堺地誌「堺鑑」によれば、天文年間(1532~1554)に三十六歌仙のひとり・猿丸太夫の子孫という藤太郎(藤太夫説もあり)が、京都上鴨の畠枝村から湊に住みついて紀州雑賀塩を土壺に入れて焼き直して諸国に販売しました。承応3年(1654)には堺政所の石河利正土佐守が女院御所(東福門院、徳川秀忠五女、明正天皇生母)に湊壺塩を献上して、その繊細な味を褒め称えられ、「天下一」の美号を許されました。また延宝7年(1679)にも関白・鷹司殿下より美名「伊織」を賜りました。船待神社に壺塩屋が寄進した菅原道真公の掛軸があって、その裏に願文と壺焼屋の系図があり、伊織は9代目壺塩師ということがわかっています。湊壷塩は北は仙台城から南は鹿児島の鶴丸城でも発見され、また長崎・出島のオランダ商館にも持ち込まれていたという記録があります。


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