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2022 年 5 月 28 日 Comments off
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今年の全国散走フォーラムのテーマは「散走の担い手」の話

2024 年 6 月 30 日 Comments off

今年の全国散走フォーラムのテーマは「散走の担い手」の話。

散走は「散歩のように自転車で巡る」ということを提唱した堺の自転車メーカー・シマノさんの造語です。「散歩のように」というのは僕なりの解釈では「逍遥」(=無目的にフラフラとまちを巡る)と同義であろうと思う。

そうやってフラフラとまちやふるさとを巡ることで、スローな逍遥によって、普段の日常生活では訪れない道や場所や人やモニュメントや風景や店や寺社仏閣や自然や異類や物語やらに偶然、出会い、自分のまち、わがふるさとを新発見して再確認して愛郷心、郷土愛、地元愛を涵養する…というのが散走のひとつの意義であり、醍醐味でしょう。

愛郷心、郷土愛、地元愛に目覚めたら自然と自分たちのまちやふるさとをより良くしようと考えるし、そのための活動も始める。そういう意味でいえば散走は、ある種のまちづくりであり、コミュニティのプレイヤーを育成する実践的手段ともいえます。

しかしガチのサイクリストの中には、こういった地元や地域、コミュニティ、まちづくりなどには、それほど興味関心がない層も多いとか。

どちらかというと「どれだけの距離を走ったか?」「どれだけのスピードが出たか?」「どれだけの坂を登ったか?」「どれだけのカロリーを消費したか?」といった「数値」を気にしている。自分の肉体改造であり、身体的なバロメータの上昇が目的で、散走的な取り組みや目指しているベクトルとは大分、隔たりがあるらしい。

この手のサイクリストは、だから地元の美味しい店などにも行かないそうです。大体、プロテインを購入して、それを飲みながら走るので地元のお店にお金も落ちないとかw なるほどなあ。

要するにどこでもいいから兎に角、長距離やアップダウンを走りたいという人たちということなのだろう。こういう人たちは確かに散走の担い手としては難しいかも知れない。

いわき時空散走の担い手…我々がいうところの「サポーター」のみなさんは基本的に自転車乗りではないw そもそも「普段、全く自転車に乗っていない」「自転車を持っていない」というような人も多いw

いや僕自身、基本的には「まち歩きの人」であって、いわき時空散走のプロデューサーをはじめた時には自転車を持ってないし、乗っていなかった。いまは心を入れ替えて(?)電チャリを買って大阪のまちなかを乗り回してますが。殊勝やなあ、おれ(そうなのか?)

要するにいわき時空散走の担い手=サポーターは「自転車乗り」ということよりも「その地域、地元、コミュニティで活動をしている人」「郷土愛、地元愛、愛郷心のある人」にお願いしているから、自然とそういう結果になる。

いわきは自転車乗りは少ないです。メチャクチャ少ない。圧倒的に少ない。なんせ日本で最も車依存率(79.2パーセント!)が高い中核市ですから。そんないわきで自転車のプロジェクトをやるなんてのは、はっきりいって無理、無茶、無謀なんですよ。わかりますか!?みなさん!?僕の苦労苦心苦悩のほどが?!

しかし、いわきは「郷土愛、地元愛、愛郷心に溢れて活動している人」「コミュニティのプレイヤー」はあちらこちらにいます。どこにでもいる。これはやはり2011年の東日本大震災と福島原発事故が影響しています。

あの時、福島、いわきの人たちは、みんな誰彼構わず、否応なしに問答無法で「このまちで暮らしていくのか?暮らしていいのか?どうやって暮らせばいいのか?」ということが問われましたから。「まち」や「ふるさと」の存在意義や意味が問われた。実際に、まちやふるさとを喪失し、ロストして無念にも移転や転居せざるを得なかった人もいっぱいいたわけです。

かつてない未曾有の天災と人災によって、しかし「このまちをなんとかしないといけない」「我がふるさとをどうすればいいのか?」と真剣に考え、悩み、行動し、立ち上がる人も無数に現れました。そういうまちづくり、コミュニティ活動のプレイヤーが日本でいちばん多いのが福島であり、いわきでしょう。それが福島、いわきの最大の武器であり、財産です。可能性です。

いわき時空散走はサイクル・ツーリズムであり、地産地消の観光ですが、僕は何よりもまちづくりやコミュニティ再生のプロジェクトとして捉えています。だから、そういう意味でいえば、いわきには「担い手不足」なんてことはないだろうと思ってます。むしろ素晴らしいプレイヤーがあちこちにいるという実感と予感しかないです。

実際にいわき時空散走をやりだしてまだ1年ほどですが、すでにいろんなまちやコミュニティの人から「うちでもいわき時空散走をやってほしい」とか「いわき時空散走に参加したい」という声を聞きますから。本当にありがたいことです。次々とプレイヤーが現れて、ほんまにいわきはすごいんです!とんでもないんです!

…というようなことを全国散走フォーラムの後の飲み会でクダを巻いて捲し立てておりましたw

明らかに僕は全国散走フォーラムの時よりも飲み会の時の方が良い話をしていたような気がしますが、まあ、そういうもんですよね。御相伴頂いた皆さん、クダをまいてすいませんでした!そしてありがとうございました!

いや、でも、いわき時空散走はマジですごいので面白いのでぜひとも遊びにきてください!秋にまたフェスをやりますから!

※飲み会の時の写真はないのでマジメなフォーラムの時の写真をw

#いわき時空散走


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大阪市文化財協会

2024 年 6 月 17 日 Comments off

大阪市文化財協会が維新行政、大阪市によって解散させられようとしているとか。寝耳に水で驚いた。やりかねないとは思っていたが…。大阪府文化財センターと統廃合する予定という。

しかし大阪市文化財協会の仕事と、大阪府文化財センターの仕事は、方向性や性質、性格が違う。統合するとしても予算は現状維持にはならず、大幅カットされるのではないか。そうなると大阪市文化財協会にとっても、大阪府文化財センターにとっても改悪である。大阪の文化的損失は計り知れない。

残念ながら大阪は、経済的に凋落、没落の一方である。それも一朝一夕のことではなくて、遡れば戦前の挙国一致、大政翼賛体制によって東京一極集中化が国策によって強烈に推し進められた時代から、そういう流れは続いている。戦後日本も基本的に、そうした東京一極集中化路線(東京は頭脳、地方は手足に過ぎない)を踏襲してきたが、地方都市ナンバーワンの大阪は、ある意味、最大の犠牲者であり、その活力を根こそぎ奪われてきた。1970年の大阪万博なんてのは大阪財閥の実力でもなんでもなく、栄光の大阪財閥が官僚統制に屈したことの歴史的敗北の象徴でしかない。だから僕は嫌いです。大阪万博w

東京一人勝ち、大阪一人負けの状態(結局、地方都市は全て負け続けているが)。そのルサンチマンから大阪都(副首都)構想が生まれてきたのも、わからないでもない。わからないでもないが維新が提唱して推し進める大阪都構想の実質的な政策や中身は建設的な副首都構想でもなんでもなく、ただ単に外資のハゲタカに悉く行政インフラを売り飛ばすだけの売国政策であった。

結果、維新による大阪の経済振興は外資カジノ一本槍である。某大リーガーの通訳がハマっていたが、時代はオンラインカジノの時代であって、今更、日本の大阪に大型カジノを作って、そんな収益など上がるわけがない。仮に儲かるとしてもその大部分は外資に渡り、弱冠のオコボレが一部の維新政治家の癒着企業に渡るだけであろう。大阪全体の経済振興にはなりえない。結局、維新はいうてることと、やっていることが違いすぎる。羊頭狗肉すぎる。

維新行政の失政によって経済都市としてどんどんと劣化、転落していく大阪だが、しかし大阪のポテンシャルは経済的な部分だけではない。むしろこれからの時代に可能性があるとすれば、文化や歴史という部分だと個人的には考えている。

例えば現在、日本全国の研究機関で保管されている埋蔵文化財の出土品は約630万箱(出土品量を60cm×40cm×15cmの箱で換算するとか)だが、考古学も進化し続けていて、いまや年間、約30万箱づつ増加しているとか。

そして面白いのが日本最大の出土遺物量が多いのが実は我が大阪であり、その数はなんと約87万箱に及ぶという。次が福岡で約49万箱。その次が千葉で33万箱。京都27万箱、兵庫23万箱・・・と続く。

意外なランキングだが、しかし、大阪の文化財、歴史的遺物の出土量は、紛れもなく、この土地の古さと歴史と文化の厚みを物語っている。不思議なことだが記紀神話の舞台である出雲とか伊勢とか奈良とかは、そうした出土品は意外にも少ないとか。じつは人の営みの歴史としては、それらの土地は浅いということなのかも知れない。記紀神話は結局、勝者による歴史編纂(歴史改竄?)なので、それを読んでいるだけでは、こういう物証の事実はわかりませんな。

いずれにせよ、大阪は日本最大の古代都市であり、歴史都市であり、文化都市であるということです。文化財の出土量がそれを物語っている。そして、そういう文化財の発掘、保管、整理、研究、検証を行うのが大阪市文化財協会であり、大阪府文化財センターなわけです。

大阪という都市の可能性は、他都市にはない、日本有数の歴史の厚みや文化の多様性にあります。しかし、そういうイメージで大阪を捉える人がほとんどいない。非常に残念なことです。そして、そういうイメージであるので大阪市文化財協会の仕事や大阪府文化財センターの仕事も浮かび上がらない。

大阪は常に誤解され続け、間違い続け、失敗し続けている。いい加減、自分たちの足元をよく見て、その豊かさを知り、大切に継承し、守っていかないといけない。

いや、しかし、これだけ誤解して間違って失敗してるのに意外と飄々としているのも大阪の凄さではあるか。大阪的オプチ、偉大なりき。アホなだけかな?w


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尻無川は唐人澪(とうじんみを)とも呼ばれ、朝鮮通信使の船の公式航路であった

2024 年 6 月 16 日 Comments off

本日は阿波座、江之子島、川口、松島まち歩き。途中、トラブルでルート変更に。時間があったので予定にはなかった竹林寺へ。金漢重の墓を案内して、みなさんでお参りした。

明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使のメンバーであった金は大坂で病に臥せて竹林寺で亡くなった。本国の朝鮮には妻と2人のこどもがいたが「こどもに逢いたい」と泣きすがる金の姿に大坂の町衆たちは心を痛め、同じ年頃の日本のこども2人を金の枕元へ呼んで我が子に見立てて看病させたという。

かつて竹林寺の側には尻無川が流れていた。この尻無川は唐人澪(とうじんみを)とも呼ばれ、朝鮮通信使の船の公式航路であった。尻無川から大阪湾に出て瀬戸内海、関門海峡、壱岐対馬を経て釜山、朝鮮半島に繋がる。

いまはもう川が埋め立てられたので竹林寺と朝鮮半島の結びつきがわからない。


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トルハルバンおじさん

2024 年 6 月 16 日 Comments off

久しぶりの猪飼野まち歩き。トルハルバンおじさんの像が御幸森第2公園にできている。済州島と大阪の直接航路(君が代丸)就航100年記念として2024年1月に建立された。

昔、韓国の人(慶州出身者でした)を猪飼野案内したさいに御幸森商店街でトルハルバンを発見して「え?なんでトルハルバンがこんなところに?」と驚かれたことがある。トルハルバンは済州島の守り神で、非常にローカルな神さま。大阪人は猪飼野のコリアンタウン(済州島出身者が多い)がスタンダードだと思っているので、韓国にいったらどこにでもトルハルバンがいるものと思っていたりするが、実は韓国の本土では珍しいとか。

済州島は火山島で、だから独特の土壌をしている。トルハルバンも色味は暗く、多孔質なんで、どうみても火成岩だなとすぐにわかる。島全体が火成岩であるので、なかなか田畑は難しい。芋ぐらいは育つかもしれないが基本的に土地は痩せている。かつては流刑者の島であったというのも土地の貧しさ、生活条件の厳しさゆえであろう。

田畑がダメなので、主な産業は漁業であり、素潜り漁が古くからあったという。済州島では海女が発達し、いまも活躍している。昔は海人・海士(男性の素潜り)もいたらしいが儒教が発達した朝鮮社会では「士大夫たるものは肌を他人に見せてはならない」という考えが強く、だから男は海に潜らなくなり、代わって女性の素潜り…つまり海女が隆盛したという。

済州島では男は昼から焼酎を飲んで暴れているロクデモナシばかりで、女が働き者で海女をして稼いでいた…というような戯言を聞いたこともあるが、さて、実際はどうであったのだろうか?

いまはリゾートアイランドで大手資本の開発で、「韓国のハワイ」と呼ばれている。今(ハワイ)と昔(流刑地)でイメージが違いすぎて戸惑う。いつかいってみたいと思っているが、なかなか行けていない。


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道頓堀のたこ焼き

2024 年 6 月 9 日 Comments off

道頓堀のたこ焼き。「一皿100円」やのうて「1個100円」。もはや大阪人は道頓堀でたこ焼きは買いません。食いません。完全に観光客の食べもの。海外からのインバウンドのお客さんが「安い!うまい!」というて買って食べる。

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昔、僕がこどもの頃、大阪市営地下鉄の新金岡駅を地上に出ると、すぐ目の前にたこ焼きを売る屋台の軽バンがよく止まってました。

販売しているのはオバチャンで、軽バンの後部を改造して、そこにたこ焼き器を置いていた。一皿7個100円で、地下鉄の利用客をアテにしていたのだろう。しかし、たまにオトンやオカンが気まぐれで買ってくれる時もあり、嬉しかった。

ある時、うちのオカンがオバチャンと話し込むことがあって、オバチャンの身の上話になり、聞くとオバチャンは早くに夫を亡くしてシングルマザーとなり、こどもを育てるために、たこ焼きの屋台を始めたということだった。

うちのオカンはその話を聞きながら、いきなりもらい泣きし始めて(オカンはすぐもらい泣きする)恥ずかしかったが、普段、何気なく食べていたたこ焼きにそんな物語があるのか…と幼心にも刻まれて、忘れられない。

このたこ焼きが僕のたこ焼きの味の基準であり、値段の基準です。そんな美味しいたこ焼きでもなかったんですw 普通の味ですわ。でも、あれが大阪の味やないかと思う。


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時の記念日

2024 年 6 月 9 日 Comments off

本日は北大江まち歩き。釣鐘町にいったら今日は「時の記念日」ということで釣鐘を鳴らし放題でした。

寛永11年(1634)に将軍・徳川家光が上洛後に大坂城に入った。大坂三郷の惣年寄などが酒樽や鰹節を献じて祝賀したところ、家光から大坂町中の地子銀(要するに固定資産税)の永代赦免が命じられた。

大坂は夏の陣で焼け野原になり、その戦後復興の最中であったので幕府から減税されたわけです。まあ、増税して復興予算、支援金、助成金といいつつ癒着企業や身内の団体に金を配るより、最初っから全体にお金が行き渡るように減税する方がすこぶる効果的ですわな。

巨額の地子銀を永代免除された大坂郷民は後世、子孫まで、その幕府の恩恵を伝えるために釣鐘を作って町中に時を知らせることにした。

実際に江戸時代、船場商人はこの鐘の音を聞いて日々の生活を送りました。朝の鐘を聞いたら生駒山から登る朝日を拝みながら南無妙法蓮華経を唱え、夕方の鐘の音を聞いたら大阪湾に沈む夕陽を拝みながら南無阿弥陀仏と合掌したとか。

お金儲けは神仏頼み。「朝題目夕念仏」の都市が大坂・船場で、そのリズムを刻んだのが、この釣鐘です。


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まちづくりは歩くことから始まる

2024 年 6 月 9 日 Comments off

いわきにいって驚いたのが圧倒的に車社会であること。実際に車依存率は中核市の中では日本一の高さを誇ります。

車で移動していたら、時速30キロや時速60キロなんて移動手段の感覚では、まちのことなんて、地域のことなんて見えてきません。わかりません。まちや地域のことが見えてないから、自然と、まちや地域への興味関心も薄れていくし、知らないし、まちづくりをやろうにも「地に足がつかない」話ばっかりがワンサカ出てくる。空回りしてしまう。

まちづくりは歩くことから始まる。だからまちは「歩ける」ことが重要で。いわきでは平の商店街のみなさんが旗振り役をやって平の中心市街地(元・城下町)でウォーカブルな都市環境を再構築しようと「たいらほこみち(いわき駅前公園化計画)」活動をやってます。素晴らしい。

https://www.facebook.com/tairahokomichi

いわき時空散走もツアー実施の時は、自転車という手段を用いてますが、実際は徒歩でもいける範囲(約10キロ以内)でマップを作成し、ツアーを構築、実施しています。

そもそも時空散走マップを作るさいに、まず現地、現場をじっくり丁寧に歩いてますから。リサーチは常に歩きが基本です。歩かないとまちはわからない。地域が見えてこない。音や匂いや風や色や光や息吹が感じられない。

いわき時空散走は車社会偏重を是正して、自分たちで歩いて楽しんだり、自転車で巡って遊ぶことができる、ヒューマンスケールなまちを取り戻そう!という社会変革であります。ちょっと大袈裟ですがw

#いわき時空散走
#たいらほこみち


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画像は「一心寺縁起絵巻」より。日想観を行う法然上人と後白河法皇の図。

2024 年 6 月 6 日 Comments off

「文治元(1185)年春、当時の四天王寺別当慈鎮和尚の請によりこの地を訪れた宗祖法然上人が、四天王寺西門近くに結んだ四間四面の草庵・荒陵の新別所に止住され、日想観を修された事に始まる。平安期以降日想観の聖地とされるこの地で、法然上人は四天王寺参拝に訪れた後白河法皇と共に日想観を修された」

以上は「法然上人二十五霊場」公式サイトから抜粋した一心寺の開創に関する説明。

https://www.25reijo.jp/reijo/7.php

興味深いのは法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのが1185年であること。この年は実は「壇ノ浦の戦い」が行われた年であったりする。

壇ノ浦の戦いは正確には元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に起こった歴史的事件で、この戦いの結果、平家一門は滅亡し、安徳天皇も数え歳8歳の若さで入水して落命してしまった。

この安徳天皇の母は平清盛の娘・徳子であるが、父は高倉天皇であり、つまり安徳天皇は後白河法皇の孫(もちろん清盛の孫でもある)となる。後白河法皇は愛する孫を失った傷心の年に京都から四天王寺にやってきて日想観を行ったことになる。

いまは埋立などで海岸線は遥か彼方に西進してしまったが、中世には四天王寺の西を望めば、そこには難波津(大阪湾)が眼前に広がっていたという。この難波津の西は瀬戸内海に繋がり、瀬戸内海をさらに西に進んでいけば、やがて関門海峡に至るが、そこがつまり壇ノ浦である。

一心寺の縁起を調べても法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのは「1185年の春」とあり、曖昧な記述なので壇ノ浦の戦い(4月25日)の前なのか?後なのか?はいまいち判明しない。判明しないが、この世の栄華を誇った平家一門が源氏に追い詰められ、滅んでいくという歴史的な瞬間であったことは間違いない。

難波津に沈んでいく夕陽を眺めながら日想観を修した後白河法皇と法然上人。南無阿弥陀仏を唱えて合掌しながら、その胸中に去来したものは一体、なにであったか。

画像は「一心寺縁起絵巻」より。日想観を行う法然上人と後白河法皇の図。


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堺・七道。水野鍛錬所さん

2024 年 6 月 5 日 Comments off

堺・七道。水野鍛錬所さん。久しぶりのまち歩きでの訪問。5代目に工房で和包丁の制作過程や日本刀の構造、水野鍛錬所の歴史など、いろいろとご説明を頂きました。

堺は「ものづくり1600年」の歴史を誇る(と堺の人はすぐいうw)。古代、古墳時代から鉄生産に携わり、中世の鋳物、刀、鉄砲、近世の包丁や近代の自転車と、ものづくりの歴史は連綿と続いている。水野鍛錬所さんに来ると、そういう堺のものづくりの歴史や遺伝子が、いまだに現役で、現在進行形で、生きていることがリアルに体感できる。わかる。ほんまに堺の宝ですな。素晴らしい。ありがとうございました!


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■大蓮寺ものがたり~第一章 大蓮寺の伝説~

2024 年 4 月 8 日 Comments off

【大蓮寺ものがたり】大蓮寺の秋田光彦前住職から「大蓮寺の歴史、伝説、伝承などをまとめた小冊子を作ってほしい」というご依頼をうけてコツコツと文献リサーチを積み重ね、纏めたのがこちらのPDFです。

https://drive.google.com/file/d/1aRYSSpLGsRG-fLTMjTOWXRyLF2oRc8-Z

■第一章 大蓮寺の伝説(PDF)

第一章大蓮寺の伝説_01

第一章大蓮寺の伝説_02

第一章大蓮寺の伝説_03

第一章大蓮寺の伝説_04

第一章大蓮寺の伝説_05

第一章大蓮寺の伝説_06

第一章大蓮寺の伝説_07

第一章大蓮寺の伝説_08

第一章 大蓮寺の伝説

■行基が東大寺・大仏造営の勧進で小庵を建てる
浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺の縁起については明治維新の廃仏毀釈や明治45年(1912)のミナミの大火、昭和20年(1945)の大阪大空襲などで関係資料が失われ、残念ながら詳細はよくわかっていません。しかし今から約100年前に書かれた『大阪府全志』(著者:井上正雄/大正11年・1922年発行)によると「聖武天皇の天平15年(743)閏3月、僧正・行基が諸国を行脚していた際に小庵を結んだ」ことが大蓮寺の始まりであると記述されています。

 上記は『大阪府全志』の著者・井上氏が当時の大蓮寺第26世住職の秋田貫融師に取材して書いた記事です。あくまで「寺伝」であって実際のことはよくわかりません。わかりませんが、少なくとも貫融師は「大蓮寺は行基ゆかりの寺院で大阪有数の古刹である」という矜持を持っていたことでしょう。

ちなみに天平15年(743)に行基が諸国行脚をしたのは歴史的事実です。聖武天皇から奈良・東大寺大仏造営の詔が発布されたさいに行基は勧進役に起用され、それで諸国を巡っていました。行基やその弟子たちが浪華の地を訪れたことは確かにあったろうと思われます。

■菅原道真が大宰府左遷の折に訪ねる
続いて『大阪府全志』には延喜元年(901)、菅原道真が大宰府左遷のさいに行基ゆかりの小庵に立ち寄って名残を惜しみ、祈願を籠めたと書かれています。

 なぜ菅原道真が行基ゆかりの小庵を訪れるのか?と疑問に思いますが、菅原道真の先祖は土師氏(野見宿禰→土師氏→菅原氏)で、その土師氏集団を率いていたのが行基でした。行基は庶民に仏教を広めるために溜池や架橋など社会福祉事業に邁進したことはよく知られていますが、そうしたさいの土木工事を担った豪族が土師氏でした。

また菅原道真は藤原氏の讒言によって失脚し、明日をも知れぬ左遷の身となりましたが、朝廷に疎まれながらも民衆を教化しようと諸国を放浪したのが行基です。行基の小庵に足を運び、どこか自分の境遇と重ね合わせて気持ちを鼓舞するようなところがあったのかも知れません。

■足利将軍家の祈願所となる
行基ゆかり、菅原道真ゆかりの小庵はその後、鎌倉・南北朝・室町と武士勢力による戦乱の時代に突入すると、全く見る影もないほどに荒廃したといいます。それを嘆き悲しみ、復興を志したのが室町幕府12代将軍・足利義晴(1511~1550)の三男・晴誉上人でした。

この晴誉上人が一体、どのような人物であったのか?詳細はわかりません。寛政年間(1789~1801)に江戸幕府が編修した大名や旗本の系図集『寛政重修諸家譜』にはその名前はないようです。

足利義晴の子には足利義輝(13代将軍)、覚慶(のちに還俗して足利義昭・15代将軍となります)、周暠などが記録されていますが、長子の義輝以外は皆、出家しています。足利将軍家は家督相続者以外の子は仏門に入ることになっていました。晴誉上人もそのような足利家の伝統的な慣例に従って仏門に入ったのだろうと思われます。

晴誉上人は自ら諸国を巡化して浄財を集め、また家祖・足利尊氏の追善供養も込めて天文19年(1550)3月5日、一大伽藍を創建しました。その境内は頗る広く東西5町、南北4町に及び、塔中8ヶ寺、直末175ヶ寺を有し、堂頭は雲に聳え、足利家の祈願所として近畿の名刹となったといいます。しかし戦国時代の動乱に巻き込まれ、兵火にかかって烏有に帰しました。

■應蓮社顕誉魯道泰純による中興
再度、寺院を復興したのが應蓮社顕誉魯道泰純(?~1632)です。『浄土宗全書』によると顕誉上人は当初、大阪・宝泉寺の願誉上人の弟子でした。その後、下総国(現・千葉市)生実(おゆみ)の大巌寺二世の虎角上人(1539~1593)の下で数年間、修学しました。その学識の深さは他の学徒がひれ伏すほどであったといいます。その後、帰国し、堺・宗泉寺に入りました。この宗泉寺は『堺市史』によると訓蓮社願誉不捨順宏の開基とありますので、最初の師匠である願誉上人が堺に開基した寺を継いだのかも知れません。

その後、いよいよ文禄3年(1594)に大阪・備後町4丁目(現在の本願寺津村別院・北御堂の北側あたり)に足利家祈願所の大蓮寺を再興します。ところが、この寺の敷地が大蓮寺の寺格に対して小さすぎるということで、顕誉上人はなんと駿府まで赴き、徳川家康に直訴しました。

じつは徳川家は代々、熱心な浄土宗の信者でした。また家康が桶狭間の戦いで敗北したさいに逃げ込んだのが浄土宗寺院の大樹寺で、迫りくる織田勢を寺の閂(かんぬき)で蹴散らしたのが七十人力の怪力僧・祖洞上人でした。まさに家康の命の恩人ですが、この祖洞上人の曽孫弟子(祖洞→貞把→虎角→顕誉)が顕誉上人となります。

家康は顕誉上人の直訴に対して感じ入るところがあったのか、書付を小出播磨守に送り、その結果、顕誉上人は慶長6年(1601)に鞴町(天満?)にて大屋敷を給わったといいます。以上は『浄土宗全書』『大阪府全志』『徳川実記』に記載されている大蓮寺の変遷です。これに対して『摂陽奇観』(浜松歌国著、天保 4年・1833年刊行)では、最初は備後町ではなくて三津寺のあたりに寺院が復興され、その後、家康の命令で西横堀あたりに移されたとあります。場所に相違はありますが、家康の命令によって大蓮寺が移転したということは間違いないようです。

また大阪の夏の陣後の元和年間(1615~1623)に現在の高津の地に移転したと『難波丸綱目』に記載されています。おそらく大阪夏の陣で大蓮寺もなにかしらの戦災を受け、戦後復興の一環で下寺町の整備が成され、幕府の命令で大蓮寺は現在地に移転したと推測できます。

その後、顕誉上人は京・浄福寺の法雲上人が知恩院第30世に昇転するさいに「徳行純固」たる僧侶として抜擢され、補佐として浄福寺の第4世住職となりました。この法雲上人は元は今川氏で、家康が三河・法蔵寺にいた頃からの友人で、度々、家康に召されて思い出話に花を咲かせたといいます。従来、知恩院住持の進退は青蓮院門主の令旨によってなされていましたが、法雲上人以後は、すべて将軍の台命によって沙汰されることとなり、これは幕末まで継続されました。いわば江戸幕府による知恩院支配のような側面もあったのですが、そこに顕誉上人も携わっていたことになります。

ちなみに大蓮寺の塔頭寺院・應典院は大蓮寺3世住職・誓誉在慶の隠棲所として建てられたものですが、それは『浄土宗寺院名鑑』では慶長10年(1605)、『大阪府全志』などでは慶長19年(1614)のことと記載されています。夏の陣前に建立されたことになりますので、應典院も夏の陣後に大蓮寺と共に高津の現在地に移ったということになります。

■家康の身代わりになった大蓮寺の僧侶?
徳川家康と大蓮寺関連の伝説には以下のような面白い話も残されています。大阪夏の陣のさいに真田幸村に追い詰められた家康が草むらの中に身を隠しました。幸村は火縄銃で草むらをかき分けて探しましたが、そのとき草むらの陰にちらちら動くものがありました。幸村は家康だと思い込んで撃ち込んでみると家康ではなくて一人の僧侶でした。僧侶は絶命しましたが、そのあいだに家康は無事に逃げ出すことができました。

戦が終わった後に家康が身代わりになった僧侶は一体だれであったのか?と調べると大蓮寺の僧侶ということがわかりました。それで家康は僧侶の供養のために大蓮寺に釣鐘を奉納したというものです。その鐘を作るさいに用いられた水が二つ井戸であったといいます。

昭和2年(1927)に出た大阪趣味研究会による『大阪叢書』「鐘を吹いた二つ井戸」という記事で、もちろん史実だとは思えませんが、今の我々が想像する以上に、かつての大阪の人々には家康、江戸幕府と大蓮寺はさまざまな因縁があり、「徳川方のお寺」と目されていたのかも知れません。

■大蓮寺の鐘は大阪市中最大の釣鐘だった
話が大蓮寺の釣鐘伝説に及んだので、釣鐘の話にも触れておきます。『大阪金石史』(大正11年・1922年刊行)によると江戸時代、大阪市中最大の釣鐘は、この大蓮寺の釣鐘だったといいます。総高6尺8寸7分(約208センチ)で寛永19年(1642)に丸屋善太郎・丸屋五郎八(兄弟?)が父(名前不詳)の菩提のために寄進したものといいます。鐘には「摂州大坂如意山大蓮寺第二世典譽信阿」上人の名前と冶鋳大工として「摂州大坂住人藤原朝臣高瀬吉左衛門尉正次」、丸屋一族58名の法名が刻まれていました。

江戸時代には大蓮寺といえば大釣鐘の寺と連想するほど有名であったようで、大蓮寺に通じる東西道(現在の大阪市立高津小学校の北側)は「釣鐘筋」(または鐘筋)と呼称されました。千日前や黒門市場方面から大蓮寺に至る参詣道として認識されていたようです。大阪ミナミ界隈の町衆は大蓮寺の釣鐘の音と同時に寝起きしたということでしょう。

のちに享保18年(1733)に高津新地ができたさいは、高津新地は幕府から茶屋32株、湯屋2株が許可され、その一角として釣鐘筋も遊所になりました。この遊所は明治時代に廃絶しますが、大正13年(1924)の『大阪独案内』には「十の日」には「高津釣鐘筋」に夜店が出たという記録などもあります。毎月10日、20日、30日ともなると釣鐘筋には夜店が出て、大蓮寺の門前市のような光景が展開していたようです。

この大釣鐘は残念ながら昭和17年(1942)に太平洋戦争の金属供出によって失われてしまいました。


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