まち歩き阪堺線シリーズ(PDF)

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【ENEOS】ENEOSさんのJXTGエネルギー堺製油所が1974年に創刊した『フェニックス』という月刊地域誌があるのですが、そこで僕は長く、密かに「阪堺電車まち歩き」という連載をしておりました。
https://www.eneos.co.jp/company/about/branch/sakai/local/pdf/phoenix_special_2.pdf

阪堺電車の堺市内エリアを一駅ごとに歩いて周辺の名所・史跡などを案内する…というもので、2012年から6年以上かけて、ちまちまと取材して、2018年に完成し、その記念本が出ました。

これ、正直、なかなか、大変な仕事でw ちょっと堺の人でも知らんような、聞いたことないような、マニアックなネタばっか集めております。いまならもっと深堀できるなぁと個人的には反省もあるんですが、まぁ、過去の仕事は振り返らないw

このたびENEOSさんの公式サイトで全文がPDFでアップロードされたようなのでご紹介。無料でダウンロードできます。素晴らしい。

ほんまは、この本を元に「阪堺電車まち歩き全踏破企画!!!」をやってみたいんですが、できない。「和泉そぞろ」もできない。「泉北ニュータウン大学まち歩き」もできない。コロナ、はよ終わって。ほんま。まぢで( ;∀;)

https://www.eneos.co.jp/company/about/branch/sakai/local/pdf/phoenix_special_2.pdf

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2021年 5月 20日
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堺は「湯屋(風呂、銭湯)のまち」

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僕の母方(綿野家)は古くから堺・旧市街地にいた商家ですが、祖父は熊野尋常小学校(現在の熊野小学校)を出ている。熊野と書いて「ゆや」と読む。

かつて界隈に「湯屋(風呂屋)」が沢山あり、湯屋といえば和歌山の「熊野」。これは熊野・湯の峰温泉の小栗判官伝説などの影響でしょうな。それで「熊野」と書いて「湯屋(ゆや)」と読んだそうで。堺の人でないと絶対に読めないw

堺には他にも「塩風呂町」があったし、紀貫之の『土佐日記』にも「しほゆあみ」(塩湯浴み)の場所として堺は記録されている。

堺はだから塩の名産地でもあった。湊塩などは天下一の称号を貰っているし、堺の開口神社のご祭神は塩土老翁神で、塩の爺さん。塩の神様。塩は身を清める。死、ケガレの不浄すら清めることができる。堺は「キヨメ」の人たちがたくさんいただろうし、特殊技能民のまちですな。

堺生まれの行基菩薩も「閼伽井(あかい)」という井戸水を沸かし、病者を治したという。堺(さかい)という地名の由来は「あかい」から来ている説もある。この「閼伽井」も、おそらく塩水ではないか?とも思われる。塩水を沸かすと、血行を促進する効果が凄い。とんでもない。

じつは堺には現役で、塩湯の風呂屋がある。湊潮湯さん。

http://www.eonet.ne.jp/~minatoshioyu/

僕は昔、堺の伝統の塩湯を体験してみたいと思って、わざわざ入りにいったことがある。僕も風呂好きではあるが、血行が良くなりすぎる。あっというまに、のぼせた。その効果に、心底、驚いた経験がある。「行基、恐ろしい子…!(白目)」となった。

お茶を飲むのも、湯上りに飲むのがうまい。バサラ大名の佐々木道誉が闘茶(茶の銘柄を当てる。ギャンブル)に興じていた絵図が残っているが、それは茶亭の真ん中に風呂がある。風呂に入り、汗を流し、そして茶を飲んだ。

茶がうまいのは風呂上り。堺は茶のまちで有名だが、じつは「風呂のまち」で有名だった。このへん、もうちょっと、着目されてもいい。堺は茶で、風呂で、まちおこしをすればいい。だから、もっと堺は、歌垣風呂をやるべきw

風呂に入ることは、湯に入ることは、医療行為であり、宗教行為であり、救済だった。文字通り、極楽ですからな。『温室経』というお経まである。正式には『仏説温室洗浴衆僧経』。

風呂のまち・堺では死者供養として「施浴」が行われていた。記録では昭和52年(1977)頃にも実施されていたという。死者を供養するために、お世話にあった方々に、近所の風呂屋を借りて、風呂を施す。近隣の人も入りにきていいという。死者を知らない人でも、無関係の人でも、他者でも、ぜひ風呂に入ってくださいと案内されたという。

素晴らしい。コモンズですな。無縁大慈悲。

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2021年 5月 5日
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大阪府立農学校跡と宮澤賢治

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生野区民センター前にある大阪府立農学校跡。近代農業の最先端を学ぶ施設であった。これが出来たことが猪飼野、生野区発展のキッカケ。

この農学校がのちに堺・大仙に移転して、戦後は大阪府立大学となる。府大は、だから伝統的に農学部が強い。いまは農学からバイオサイエンスや生命環境となっているが。

大阪市立大学は大阪商業講習所が源流なので、商学系が強くて、だから市大と府大は性格、性質、方向性がまるで違う。合体して大阪公立大学とやらになるそうですが、持ち味が反目しあって、共倒れするんやないか?という気がしてなりませんな。よくある話やけどもw

この大阪府立農学校には、実は、あの宮沢賢治が若き頃に訪れている。盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の修学旅行で訪問したが、農学校はなぜか休校中(訪問する前に確認しーやw)で中の視察はできず、近隣の養鶏場を見学して帰ったとか。賢治は大阪府立農学校の周りをグルグルして、学校の近代的設備の素晴らしさを羨ましがっていたとか。

やがて人類は人工太陽すら創造し、人工降雨を実現させ、年がら年中、田畑は潤い、飢えや貧困がなくなり、この世はイーハトーブ(理想郷)となる…という近代ロマンの夢に邁進した法華主義者こそが宮沢賢治。

その夢の始源を、この当時最先端の大阪府立農学校に見たのかもしれない。


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2021年 4月 6日
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【和泉そぞろ】和泉のまち歩きプロジェクト「和泉そぞろ」のマップがお披露目になりました!以下からダウンロード可能です。

【和泉そぞろ】和泉のまち歩きプロジェクト「和泉そぞろ」のマップがお披露目になりました!以下からダウンロード可能です。
https://is.gd/vs10bu

プロデューサーは陸奥賢。コーディネイターは宝楽陸寛大先生。協力がいずみ市民大学の観光おもてなし学科の受講生のみなさんです。

市民大学、社会人大学では僕は常々、まち歩きスゴロクの制作やまち歩きマップの制作をやってましたが、それらはあくまでも学習成果のものとして世間一般に向けて公表する形ではなかったんですが「折角なら、ちゃんとした成果物(まち歩きマップ)を作ろう!」ということで編集しました。いやぁ、素晴らしいマップになりました。自画自賛w

まち歩きイベントも実施する予定です。乞うご期待ください!^^
https://is.gd/vs10bu

①『和泉に眠る幻の武家屋敷「伯太藩陣屋跡」を訪ねて』
https://satomachi-izumi.com/wp-content/uploads/e0a5ebe51d85ede971ad3fe346fa03f9.pdf

②『和泉府中を彩る伝説の女傑たち』
https://satomachi-izumi.com/wp-content/uploads/e72a2997f9d9dedb4d1f1d4a17f14e09.pdf

③『和泉の文化芸術の殿堂!久保惣記念美術館へ』
https://satomachi-izumi.com/wp-content/uploads/8b6026f4a2357ee5149d7a36c3bc5f10.pdf


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2021年 3月 18日
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まわしよみムー、はじめてみます

まわしよみムー、はじめてみます。

facebookページはこちら。
https://www.facebook.com/mawashiyomimu/

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【いま、なぜ、まわしよみムーなのか?】

世界中に蔓延する新型コロナ・ウィルス。日々、増加する患者数や死者数に日常生活は脅かされ、医療切迫や医療崩壊を防ぐために政府主導で都市封鎖やロックダウンを行い、社会機能が停止、休止せざるを得ないという都市や国家も数多く出ています。

他者との交流、コミュニケーションを絶たれた人間ほど弱く、脆い存在はありません。外出禁止、飲食禁止、イベント禁止、文化芸術活動禁止、会話禁止…といった制約はかつてないストレスを生み出し、精神的な不調を来す人も少なくないとか。

孤立した状況下で迎えるパンデミック(感染症の世界的大流行)はネット依存を増やし、しかしネットは「フィルターバブル」(検索やサイト履歴などでユーザーに最適化された情報だけを提示する=未知、新しい情報が手に入らない)や「エコーチェンバー」(同じ情報、思想、思考の発信者とだけ連携する=他者を排除する)を起こしやすい情報ツールであることから、アクセス数を稼ぐために平気でデマ、ウソ、カルトを垂れ流す煽情的なフェイクニュースや炎上系のモンスター・インフルエンサーに感化されてしまい、インフォデミック(デマや偽情報の氾濫によって起こる社会動乱)的な状況も世界各地で起こっています。

そして、こういうインフォデミックの時代…何がホンモノで、何がニセモノか?よくわからない「不透明な時代」にあるからでこそ、『月刊ムー』を回し読むべきではないか?と主宰者の陸奥賢は思ったわけです(いきなり。また例の直観)。

1979年発刊。日本最古にして最長のオカルト雑誌で、キャッチコピーは「世界の謎と不思議に挑戦するスーパーミステリーマガジン」こと『月刊ムー』を読んでいると、なぜか、ほっとします。ツッコミどころ満載です。「コロナはただの風邪!」「アメリカ大統領選挙は不正だ!」程度のデマやウソやフェイクニュースなどどうでもよくなってきます。

…というわけで「まわしよみムー」、やってみたいと思います。参加者募集中!


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2021年 2月 22日
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生涯学習は協働教育

生涯学習系の講師の仕事が多い。受講生は10代、20代から80代、90代まで、本当に幅広い。それがこの仕事の面白いところでもある。

幅広い年代が集まるだけに、やれること、やれないこと、できること、できないこと、知ってること、知らないこと、得意なこと、苦手なことは受講生によって千差万別。

講師としては、どこに学習のレベルをあわせるか?がなかなか悩ましい。「できる人」「わかる人」「やれる人」だけを集めるのは、ある意味、ビジネスセミナー的な発想で、それを生涯学習の現場に持ち込んでも難しい。破綻する。

大体、生涯学習は国や市町村といった官のバックアップが多い。「公金」でやっているのだから、当然、「公精神」が必要で、だから結局「護送船団方式」にならざるを得ない。もっとも「できない人」「やれない人」「わからない人」を基準に学習プランを考える。

そういうのが物足りないといって、途中で抜けていく受講生も中にはいる。ここは、しかし生涯学習の成り立ち、公精神を尊重する立場を踏まえて、できることであれば、あなたの知識や得意なこと、できることを、あなたの隣のできない人、わからない人、やれない人に、ぜひともシェア、贈与して欲しいと思う。

そもそも生涯学習のような現場で、受講生を、他者を、出し抜く必要などない。あなたの知識や知恵や得意なことを、他者に、社会還元する場だという意識を持って欲しい。

なぜ、そんなに他者より上に立ちたがろうとするのか?といえば、どうもビジネスマインドや偏差値テストのような感覚から抜け出ていない人が多い。

生涯学習の場で、そんな他者と比べるようなことはしない。僕はテストもしない。やらない。個々の成績などみない。必要ない。受講生全体として、他者と助け合い、手伝い、分かち合い、何がなせるか?何をなしたか?が最も重要だと僕は考えている。

要するに生涯学習の現場は「みんなで作って、みんなで味わう料理教室」のようなもので「協働教育」ということです。あなたのための場ではない。みんなのための場です。

世の中にはいろんな人がいる。そういう他者とどうやって折り合いをつけて、全体の知のボトムアップ、社会知をあげていくためにはどうすればいいか?

そういう教育実践が生涯学習だろうと思ってます。

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※こういう協働教育は、しかし、実は生涯学習ではなくて、こどもたち…小中高の時代に最も必要ではないか?と思ってますがね。

常に他者と比べられて、他者より上に立つことを求められて、偏差値で格付けチェックされたりするのは、どうなのか?

こどもの自尊心は傷つくか?歪むか?のどっちかちゃうか?知らんけどw


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2021年 1月 22日
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神戸八社巡り2021動画集

■オンライン配信「1/16実施・阪神淡路大震災復興&コロナ鎮静祈願まち歩き・神戸八社代参巡礼」

https://www.facebook.com/events/405840554025052

■一宮神社・神戸ユダヤ共同体(神戸ジューコム)跡地

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4976665929071195

■二宮神社

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4976819125722542

■東遊園地・慰霊と復興のモニュメント・1.17希望の灯り

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4976939989043789

■三宮神社・神戸事件

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4977029335701521

■四宮神社

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4977174049020383

■五宮神社

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4977290539008734

■六宮神社・八宮神社

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4977388548998933

■湊川神社

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4977510998986688

■七宮神社

https://www.facebook.com/mutsusatoshi/videos/4977650855639369/


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2021年 1月 17日
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■オンライン配信「1/16実施・阪神淡路大震災復興&コロナ鎮静祈願まち歩き・神戸八社代参巡礼」 https://www.facebook.com/events/405840554025052/

■オンライン配信「1/16実施・阪神淡路大震災復興&コロナ鎮静祈願まち歩き・神戸八社代参巡礼」

https://www.facebook.com/events/405840554025052/

阪神淡路大震災の復興祈願とコロナ鎮静祈願として、港町・神戸を守護する「神戸八社」を巡ります。オンラインで巡礼の様子を配信します。代参巡礼希望者を募ります。

■オンライン配信日時:2021年1月16日(土)12時~巡礼が終わるまで(夕方までには終わる予定です)

■ルート:①一宮神社→②二宮神社→※東遊園地(慰霊と復興のモニュメント。人が多ければ遠くから眺めてお祈りします)→③三宮神社→④四宮神社→⑤五宮神社→⑥六宮神社・八宮神社(六宮神社と八宮神社は合祀されています)→⑦七宮神社 ※約8キロほどです。道中は配信しません。ポイント毎に配信します。

■代参巡礼費:無料
※もし、よろしければカンパをお願いします。でもカンパがなくても「無料視聴」もOKですw 

ただ陸奥賢、コロナと緊急事態宣言で仕事が吹き飛び、正直、大変な状況です。わずかでもカンパをいただけると嬉しいです。カンパはPayPay(ID検索してお振込みください)か銀行振込で受け付けております。
●PayPay ID:mutsusatoshi
●銀行振込:池田泉州銀行 新金岡支店 普通0140848 ムツサトシ

【解説】
ここ数年、1月17日は、大阪・下寺町の浄土宗寺院の應典院で開催される総合文化祭「コモンズフェスタ」で震災復興祈願として「異類観光プロジェクト」をやっていました。

コモンズとは「入会地」「共有地」のこと。そこは「他者」が集う場所であり、「共異」の場です(共同=コミュニティではなく)。「他者」の中には自分と違う存在…そこには当然、「死者」や「異類」も含まれるわけで、それで「異類(動物)」という「他者」の存在や生命について語り、考え、味わう(最後に異類を調理し、その生命を頂戴し、僧侶の読経で供養しておりました)という場を寺院の中で設けたわけです。

2015年の「鯰(地震の象徴です)」から始まって「亀」「鯨」「馬」「鹿」「蛙」と続いたのですが、2021年の今年は應典院は設備の老朽化などで一般利用を停止しており、コモンズフェスタも休止状態。さらに世の中は、コロナ感染者の蔓延と医療切迫から緊急事態宣言(まだ関西方面は発令しておりませんが、いずれ出ることでしょう)という状況にあります。

そういう中にあって、震災祈願として僕が一人でもやれることは何か?と考えて、去年から実施している「オンライン代参巡礼」を1月16日(土)に実施することにしました。一人で、港神戸を守護する神戸八社を巡ってオンラインで配信します。

神戸八社は生田神社の氏地にあり、生田神社の裔社と呼ばれていました。一宮は北野村、二宮は生田村、三宮は神戸村、四宮は花隈村、五宮は奥平野村、六宮は坂本村、七宮は兵庫津北浜、八宮は坂本村の鎮守として信仰されていました。神戸港を守るための神々ということになります。

面白いのが「八宮」という宮の数です。大阪であれば「四天王寺七宮」などがありますが、これはおそらくは星辰信仰の名残です。つまり北斗七星の象徴でしょう。「七宮」ではなくて「八宮」とあるのは謎ですが、古代中国では北斗七星はじつは「北斗八星」(北斗七星+輔星)でした。星が一つ多かった。さらにもっと古代には「北斗九星」(北斗八星+弼星)の時代もありました。神戸では北斗八星の時代の信仰が伝わったと考えると面白いですが、もしかしたら日本人は「八」(末広がり)という聖数を好むので、その影響で七星に一星を増やしたのかも知れませんが…。

いずれにせよ、神戸というのは港町で、海民のまちです(ちなみに四天王寺も古代はすぐ目前の西に海が迫っていたので海民の寺院、海民の都市でした。四天王寺七宮があるのは必然でしょう)。海民たちは星辰信仰の民でもあります。大海原に出て、特に危険な夜になれば、自分たちの位置を教えてくれるのは星だけです。

とくに重要なのが決して位置を動かさない北極星であり、その北極星を指し示すのが北斗七星(八星、九星)ということになります。「スターナビゲーター」(星の道しるべ)といいますが、海民たちの生命を託す存在として星があり、それが北斗信仰の始まりです。

ちなみに日本仏教では妙見菩薩が北極星の神格化した存在とされていますが、妙見信仰は日蓮宗寺院において盛んです。開祖の日蓮上人が漁師出身だからです。古代の海民の素朴な信仰(北斗信仰)が、妙見信仰というスタイルに変わりながらも、日本全国に根付いている一例でしょう。

※山の民も北斗信仰を盛んにしました。山も鬱蒼を生い茂った森林によって夜道が危険です。その時に道しるべになるのが森林のあいまから見える空の星でした。「海の民」「山の民」。そして海と山を繋ぐ「川の民」の信仰として北斗信仰(星辰信仰)の影響はそこかしこに見出せます。

阪神淡路大震災の復興祈願として、合わせてコロナ鎮静祈願として、港町・神戸を守護する神戸八社を巡りたいと思います。

緊急事態宣言下ですので、一人で巡ります。前日の1月16日(土)にしているのは、阪神淡路大震災が起こった1月17日(日)は、やはり、いろんな方が現地を訪れます。なるべく密になる環境は避けた方がいいだろうということで前日にしました。また現地までは大阪から車で向かいます。電車、バスなども使いません。密を避けて、誰とも会わずに、1人で実施します。

巡礼の様子はオンライン配信します(facebookの陸奥賢の投稿と、このイベントページで行います)。アーカイブとして動画はアップしておいておきますので、いつでも、お時間のある時にみてください。

来年か再来年か、コロナが落ち着いた頃になれば(ワクチンの普及か?指定感染症が2類から5類になるか?病床数が増加するか?いずれにせよ医療切迫の状況が改善しているならば)、またみなさんとご一緒して、1月17日に神戸八社を歩きたいと思います。

https://www.facebook.com/events/405840554025052/


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2021年 1月 17日
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■Project for the Revival of the Seven Graveyard Pilgrimage in Osaka(大阪七墓巡り復活プロジェクトの概要・英語解説文)

大阪七墓巡り復活プロジェクトに興味関心をもったR氏(米国生まれ、育ち)が大阪七墓巡り復活プロジェクトの概要を翻訳して英語解説文を作ってくれました!「ご自由にお使いください」とのことなのでご紹介。七墓のような取り組みは、外国の方にとっても実に興味深いようです。

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■Project for the Revival of the Seven Graveyard Pilgrimage in Osaka

In Japan, Obon is a time for paying respects to the deceased, and particularly to departed members of one’s family. However, not all souls have descendants to honor them, a situation the traditional Seven Graveyard Pilgrimage in Osaka was designed to address.

The pilgrimage appears to have originated toward the end of the 17th century. It flourished until the middle of the 19th century, began losing steam following the Meiji Restoration in 1868, and died out during the first decades of the 20th century.

The pilgrimage was by no means a sombre march from graveyard to graveyard. Contemporary illustrations suggest that pilgrims typically rang bells, played hand drums, chatted and sang or chanted during the processions.

The set of seven graveyards visited during the pilgrimage was fluid and, particularly as time passed, it seems that any given band of pilgrims would visit whichever seven graveyards were most proximate or had particular significance for the band.

The dramatist Chikamatsu Monzaemon (d. 1725) wrote a play entitled “The Seven-Grave Pilgrimage of Kyōshin of Kako,” but the play notes not seven but eight communal graveyards located outside what was then the heart of Osaka. Running from north to south, these are Umeda, Nagara, Yoshiwara, Gamō, Obase, Takatsu, Sennichi and Tobita.

Population shifts accompanying the modernization of the Meiji Period caused Iwasaki, Abeno, Ajigawa, Ōhito, Noe and possibly lesser-known graveyards as well to be added to the list. Other graveyards noted in one source or another include Kizu, Fukushima, Tennoji and Enami.

Depending on which seven graveyards the pilgrims visited, the pilgrimage would have required about half a day.

At this point you may be wondering whether the number seven had any particular significance in the context of the pilgrimages. Although there is no documentary evidence, the presence in Sennichi of the temple Jianji (自安寺) suggests a possible connection with pole star worship.

Jianji was dedicated to the cult of Myōken, a deification of the pole star.

In one strand of syncretic Chinese popular belief imported into Japan, the pole star was regarded as lighting a path for the dead to the other world. As the seven bright stars of the Big Dipper help indicate the position of the pole star in the night sky, believers regarded these stars as helping to guide the deceased to their destination.

What motivated the pilgrims? While it remains common for relatives, friends and associates of a deceased person to pray at his or her grave, and for priests to offer prayers for neglected souls, we can only conjecture why participants in the Seven Graveyard Pilgrimage in Osaka would have purposely visited a series of graveyards to comfort departed spirits with whom they were unrelated.

That said, I believe one motive was a desire to assuage the spirits of two distinct groups of local residents killed during the Siege of Osaka (1614-15): Combatants in the siege loyal to Toyotomi Hideyori (son of the former de facto ruler of Japan, Toyotomi Hideyoshi), and the non-combatant men, women and children slaughtered by the Tokugawa forces en masse.

To explain, I must make a historical digression.

In the years following the siege, Osaka was rebuilt and prospered as a mercantile city, with certain merchants accruing considerable wealth. Nonetheless, merchants remained at the bottom of the social order imposed by the Tokugawa Shogunate, ranking beneath samurai, peasant farmers and artisans. Their social position being always precarious, merchants were constantly on guard lest they incur the anger of samurai or, even worse, the displeasure of the shogunate.

Another characteristic of Osaka merchants during the early Edo Period is that many remained loyal to the memory of Toyotomi Hideyoshi. However, it could go without saying that under Tokugawa rule, this was a sentiment the merchants could not openly express.

I posit that the socially precarious situation of Osaka merchants and the subversive nature of their loyalties led some among them to inaugurate the pilgrimage as a covert means of paying respect both to Toyotomi Hideyoshi and out of sympathy with the socially disadvantaged fellow residents who had been slaughtered in the Siege of Osaka.

Next, turning to another aspect of the pilgrimage, it is significant that it was undertaken in a metropolis. Participants in village events such as festivals and funerals tend to be deeply connected with the land of their ancestors and with fellow villagers. Historically, outsiders lacking such connections were not allowed, for example, to touch or to help carry portable shrines.

In contrast, cities attract a multitude of unrelated people, and neighbors often know little or nothing of each other. We might suppose that a lack of connectedness played a role in prompting individuals to join a pilgrimage aimed at comforting spirits with nobody to pray for them.

Why then did the custom wither and die? Two main reasons may be cited. First, removal or consolidation of the graveyards accompanying city modernization. Second, local oversight of graveyards being taken over by the national government, an entity less disposed to sympathy or empathy compared to local individuals.

At present, the land on which most of the former graveyards were located have become parks, entertainment districts or shopping and residential areas.

I inaugurated the Project for the Revival of the Seven Graveyard Pilgrimage in Osaka in the aftermath of the Great East Japan earthquake of 2011, an event far more socially disruptive than even the bloody Siege of Osaka. Thirty participants joined the pilgrimage that year, and the number has subsequently risen to as many as one hundred. Pilgrims have included residents of Kyushu and other parts of Japan, as well as of other countries.

Many participants have been childless singles in their 20s, 30s and 40s, a phenomenon I believe is connected with the rising numbers in Japan of single people who may be expected to die with no family members to remember them.

One such participant, a woman in her late 40s, told me she takes part in the hopes that in the future someone will do the same for her. I see this as a fascinating way of linking past, present and future.

Performing the Seven Graveyard Pilgrimage in Osaka is a means both of experiencing how people in Osaka in the Edo Period interacted with the dead, and of obtaining hints about how we moderns might wish to do likewise.

In 2020, owing to Covid-19, I conducted the pilgrimage as a solo undertaking. I hope that by August 2021 I will be able to resume conducting the pilgrimage as a group, and I welcome you to join us.
For more, information, please contact me by e-mail at mutsu_satoshi@ybb.ne.jp


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2020年 10月 15日
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幻の大阪十二薬師霊場を巡る

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『摂陽群談』における大阪十二薬師霊場は、そのほとんどを修験者が守っていた。天台宗系修験の本山末派が5つ(①②④⑦⑪)。当山末派(真言宗系修験)と真言宗寺院(これも要するに修験者だろう)で4つ(⑥⑧⑨⑫)。民家が3つ(③⑤⑩)。

民家に祀られているお薬師さんが3つもあるのも面白いが、これも普段の管理は民間人(庄屋など)がやっていて、薬師のご縁日8日12日に修験者がやってきて祭祀をする…といったようなパターンかも知れない。

いずれにせよ、江戸時代初期の大坂で、薬師信仰を広めたのは、修験者たちであるのは間違いない。

修験は諸国を行脚していた。戦国時代には大名に雇われて諜報的な活動も行っていた。そもそも忍者のルーツは修験だったりする。江戸時代の幕藩体制の時代には相応しくない。不穏な存在となる。そこで江戸幕府の政策で、修験はすべて天台宗系(本山派)か真言宗系(当山派)の管理下に置かれた。

山から山を移動していた修験たちが、町で生活するように命令される。こうして江戸時代に「町修験」が誕生する。彼らは修験の信仰スタイルをなんとか町中に広めようとする。修験者は山(聖地)から山(聖地)を巡ることで、修行し、精神を修養する。そこで町中に聖地を「見立て」ることで、都市の中にダウンサイズして巡礼を再現した。それが「都市巡礼」となる。

大阪十二薬師霊場巡礼が、いつ頃できたのか?は謎だが、元禄以前からあった。その頃に確認できる大阪の都市巡礼は「大阪三十三か所観音霊場巡礼」と「大阪十二薬師霊場巡礼」、そして「大阪七墓巡り」ぐらい。

その後、爆発的に都市巡礼ブームがやってきて、大阪の都市巡礼は最盛期には35コースを超えた。これは江戸の25コース、京都の16コース、名古屋の9コースを超えて、日本最多。「日本最大の巡礼都市」が大阪だった。

修験はしかし、いまいち、よう、わからんですな。僕は都市仏教の人間なのでw とりあえず、「役行者霊蹟札所会」を巡るか…。

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①池田町薬師(慶長年間)→堀江新地御池通(元禄年間)
本山末派安樂院浄慶坊

②亀山町薬師
本山末派大鏡院法印

③北谷町薬師
民家(岑女)

④南瓦屋町薬師
本山末派玉寶院

⑤車町薬師(難波薬師)
民家(河内屋庄兵衛)

⑥白髪町薬師
真言僧大福院

⑦立売堀帯屋町薬師
本山末派年行事大學院法印

⑧御霊宮薬師
真言僧新坊

⑨四軒町薬師
当山末派一樂院

⑩堂島永楽町薬師
民家(鹽屋庄次郎)

⑪常安町薬師(懐妊薬師)
本山末派験者権大僧都理寶院法印圓海

⑫小右衛門町薬師
当山末派福壽院


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2020年 9月 8日
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