アーカイブ

2007 年 12 月 19 日 のアーカイブ

大坂堂島米会所物語

2007 年 12 月 19 日 Comments off

015
島実蔵氏著。時事通信社。

「堂島米会所」て、ご存知ですか?世界初の公設先物取引市場。
http://www.ose.or.jp/profile/pr_reze.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E4%BC%9A%E6%89%80

じつは「Dojima Rice Exchange」は国際的に有名で、実際に米国版wikipediaで「dojima」と検索すると「the forerunners to a modern banking system」(現代的な銀行システムの先駆け)と記述されて登場します。世界最大の先物取引市場のシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)の見学ツアーに行くと「この取引所のルーツは日本の先物取引所であり大坂が発祥の地です。私たちは世界で最初に整備された日本の市場を参考に開設されました」というガイドの音声テープが流されるそうで、玄関ホールにも堂島米会所を顕彰する銅版があるとか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dojima
http://en.wikipedia.org/wiki/Chicago_Board_of_Trade_Building

江戸時代の日本全国の米相場は大坂商人が決定していました。前田藩・金沢100万石とか伊達藩・仙台62万石とかいいますが、この石とは米のことです。米は大名や地域の生産力、経済力の指標でしたが、その相場は、幕府ではなくて大坂・船場商人が握っていました。どうやって握ったか?というと堂島米会所の先物取引で米の収穫前に、米を「証券」で買いつけたり、売ったりしたんですな。

米は不作もあれば豊作もあって価格は常に不定です。それを船場商人が予測して、新潟からなんぼ買いつけて、土佐になんぼで売りつけてと、すべて収穫前にやりくりしていたわけです。よく大坂のことを「天下の台所」といいますが、なぜ大坂に米が集められたか?というと、先物証券で米を「買った!」「売った!」していたから日本全国から大坂に米が集まってきたわけです。

堂島米会所には2つの米市場があって、1つは「正米取引所」といって、実際に米を取引する市場で、もう1つは「帳合米取引所」といって「帳簿の米(まだ収穫前で帳簿の上でしか存在しない米)を合わす取引所」・・・つまり先物取引の市場でした。幕府は正米取引所には参加してたんですが、帳合米取引所には決して参加しようとしませんでした。「帳簿の米なんて得体の知れないもので取引なんかできるか!」とバカにしてたんですな。経済オンチといいますか、これが幕府の限界でした。

じつは江戸中期から幕府財政はガタガタになります。江戸初期には考えられなかったことですが、幕府や全国各地の大名が新田開発に取り組んだ結果、日本全国の米の生産量が日本全体の総消費量を上回り、時には「米余り」「米のインフレ状態」になったわけです。こうなると「米の価格」は下落する一方で、米に依存する経済機構の幕府や大名は一生懸命に米を増産するんですが、どれだけ米を生産しても米の価格が安くなって儲からない。

そこで必要なのが先物取引で、じつは先物取引には米の生産量を調整する役割もあります。先物は例えば「1年後に私は米を100石買いますよ」というような取引形態です。「買いの注文」が殺到すれば需要が増えるから米の価格は上がります。しかし逆に「1年後に私は米を100石売りますよ」と「売りの注文」が殺到すれば供給が増えて米の価格は下がります。こうやって先物売買を済ませていると、収穫前なのに「1年後の米の価格」がおぼろげながら見えてきます。「1年後の米の価格が判る」となると、「米が高く売れる」となれば精を出して米を生産しようとするし「米の値段が安くて売っても儲からない」となると米の生産よりも何か違う特産品に精を出そうとします。「米あまり」「米インフレ」の状態を解消するには先物取引の調整システムが必要不可欠やったんですな。

実際に大坂・船場商人は「旗降り通信」「のろし」などで情報網を張り巡らせて、米の相場はもとより生産地の「晴れ」「雨」「災害」「事件」などを刻一に記録しておりました。米の豊作や凶作を予測していたわけで、日本全国各地に「旗振山」「旗山」「相場山」「相場振山」という妙な名前の山が数多くあるんですが、これらは大坂・船場商人の旗振り通信の拠点だったところです。

0 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=223

対して当時の幕府の情報伝達方法は飛脚でした。お役所仕事ですから書状にしてサインとかハンコがないと有効ではないんですな。「忠臣蔵」では浅野野長矩が吉良上野介を斬りつけた「江戸城松の廊下の事件」を伝えるために江戸から赤穂まで620キロをわざわざ飛脚が走ってます。「4日間でたどり着いた」といわれてますからこれまたスゴイ体力ですが、旗振り通信なら2時間あればニュースが届けられたといいます。相場の世界は一分一秒を争いますから飛脚では情報が遅すぎて役に立ちません。

大坂・船場商人は「堂島米市場」や「旗振り通信」といった幕府には到底思いつかない独創的アイデアで、日本の流通経済を牛耳ったわけです。先人というのは偉大といいますか、大坂・船場商人の知恵には驚かされますな。

次はこれを読もうと思います。
http://book.jiji.com/books/publish/p/v/249


カテゴリー: 雑感 タグ: