大晦日
※大阪市住吉区「神ノ木地蔵」
年の瀬が迫ってきました。今年は変化の激しい年だったように感じています。世界的な金融大不況や大統領選挙、BIG3の凋落などは典型的な例でしょうが、数年前からこういう動きや流れになるような雰囲気は感じていました。大げさにいえば、だんだんと現代文明が転換点を迎えつつあるのかな…という気がしています。
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紀元前に始まった農耕文化は、人類が「貯蓄」「蓄財」に目覚めた始まりといわれています。農作物は、例えばお米なら1年間に1回しか収穫できません。これを収穫シーズンの秋に「収穫できた!」と嬉しさの余りに食べつくしていたら、人類というのは冬のあいだに飢えて死んでしまいます。定期的に、計画的に、消費することを調整しないといけない。貯蓄の大事さ。蓄財の大切さというのを農業生産物から人類は学ぶわけです。日本でいえば、ネズミに食われないように「ネズミ返し」のついた高床式倉庫の建設。あれは日本人が「貯蓄」することを覚えた現れです。いまでいえば「銀行」のようなもんです。
米とか麦とか「農産物」「モノ」「物財」に頼る文明が「古代文明」の創始です。米や麦を増やすことで食うことに困らなくなって、みんなが幸せになれる。それで農作物を増やすために、人類は耕地を広げて、治水を行って、組織が出来て、ボスが生まれて、政治が生まれて、ときには土地争いに発展して、戦争まで行われるようになりました。黄河、長江、インダス、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明は皆、こうした農業文化の創始、発達から生まれてます。
米や麦の生産、収穫量がコミュニティ全体の消費よりも過剰になると登場してくるのが「商人」です。余剰生産物を交換することで生業が成立する階級が生まれてくる。古代文明(農耕文化)が発展すると自然と人類には「交易の時代」が到来しました。古代ペルシャの「王の道」や「すべての道はローマに通ず」で有名なローマ帝国の「ローマ街道」などはその一例です。ユーラシア大陸を越えて、遠く極東の日本の港(大阪・住吉大社)にも通じる「シルクロード」も、この時代に整備されました。人々やモノが全世界を駆け巡って往来して、物質主義、欲望主義、人間主義が横溢した。
古代美術を眺めていると古代人の感性がよくわかります。ギリシャやローマの美術というのは、恐ろしいほど精巧で、人間を見事に冷徹に観察していることに気づきます。ミロのビーナスなどはまるで20世紀人が作ったかのように写実的です。カメラのようだといってもいいでしょう。これが例えば農業文化、古代文明以前の、上古の時代の美術となると、非常に抽象的で、なにを作ってるのかよくわからないものが多いです。たとえば日本の大地母神=土偶は宇宙人みたいなけったいなものになっています。ミロのビーナスも土偶も同じく「女神」なんですが。
こうした古代文明の写実美術というのは、しかし中世になると、まるで見られなくなります。中世は上古の時代のように「神」が復活した時代で、精神的な、感性を重んじる抽象美術の世界です。ビザンティン美術、ロマネスク美術、ゴシック美術というのがまさにそれで、この頃のキリストや十二使徒は「12頭身」に描かれていて、現代人が見ると奇妙な倒錯感を感じます。植物図鑑にも「マンドラゴラ」(マンドレイク)なんて奇妙な生物が記述されたりして、まるで科学的ではありません。神が蘇り、天使が舞い、悪魔や死神が跳梁跋扈した中世の幻想美術。
美術以外にも例えば科学の世界でも、古代のほうが正確かつ論理的で、中世社会は後退しています。農作物を生産することは、物事を観察する=「科学すること」が尊重されたわけで、天文学(稲をまく時期や収穫の時期など、天文の動きこそが農作物生産の要です)などが大いに発達しました。実際、古代ギリシャのプラトンやアリスタルコスは、はっきりと「地動説」を唱えていますが、中世社会では否定されました。結局、16世紀に「ルネサンス」(古代ギリシャ・ローマ文化、人間主義への復興運動)が始まって、コペルニクスの登場やガリレオが「それでも地球は動く!」と宗教裁判で証言するまで忘れ去られていました。
芸術にしろ、科学にしろ、その時代や文明というのを鏡のように如実に反映しますが、古代から中世へといたる芸術、科学を検討すると、古代文明は断絶しているという歴史的事実に気づかされます。人類文明は古代と中世のあいだで、一度、崩壊しているんです。なぜか?戦争ではありません。「自然環境破壊」が原因です。
ギリシャやローマ帝国時代に利用された自然エネルギーは薪炭や木材ですが、古代文明の人口が増大して、消費エネルギーが無尽蔵に膨らむと、木材の伐採が大いに進行しました。建築や造船用材の使用、焼畑農業によって緑は破壊されて、みるみる森林はなくなりました。古代人は自分たちの欲望のままに自然環境を開発しつくして、生態系のバランスを崩してしまったわけです。こうして農業生産物が取れなくなって、古代文明が疲労の局地にあったときに異民族の襲来によって、偉大なるエジプトも、ギリシャも、ローマも、あっさりとこの地上から消滅してしまいました。いま現在もエジプト、メソポタミア、インダス流域は砂漠化して、古代文明の環境破壊の凄まじさを物語ってます。オリンポスの神々が牧歌とともに愛を語り合った、美しきギリシャの山並みは、いま跡形もありません。
中世というのは、古代文明の失敗と内省から始まりました。人類は欲望のままに自然体系を破壊して、神々に反逆したことを激しく後悔しました。そこで「人類は罪深いものだ」という「原罪」の思想が生まれて、「宗教文明の時代」へと突入したわけです。古代人と同じように科学主義に染まっている近代人(もちろん我々、現代人も含みます)は、中世のことを「迷信に支配された魔女狩りの時代」「暗黒時代」などと呼んで忌み嫌いますが、古代文明を支配した科学主義、人間中心主義の思想を捨てて、中世という「祈りの文明」を選択したことは、ぼくは人類の素晴らしい叡智だと信じています。むしろ中世人からすれば古代人、近代人(そして現代人)こそが「神が不在の暗黒時代の住人」でしょう。
古代文明が木材に依存したのと同じく、現代文明も石炭、石油に依存して科学主義、欲望主義、人間主義で突き進んできましたが、いま明らかに飽和状態です。「歴史は繰り返す」といいますが現代文明は確実に転換点を迎えつつあります。「土偶」や「12頭身のキリスト」を拝むことは所詮「迷信」に過ぎませんが、ぼくはその「祈り」の背景にある、自然とともに日々を暮らそうとした人類の優しい知恵や姿勢を尊ぶべきだと思っています。「天網恢恢、疎にしてもらさず」といいますが、そういう敬虔なモラルハザードこそが、いまの人類社会に必要なのではないか、と感じています。
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えらく長ったらしい文章を書きましたが、年に一度の大晦日ぐらいは、こういうマジメで、難しいことを考えてもいいだろう、と思って書きました。今年1年、いろいろとくだらない雑文を書いてきたので、その反省です。お坊さんは人間の煩悩の数だけ除夜の鐘をついて懺悔しますが、ぼくは「ものかき」なんで文章で懺悔しないといけないんですわ(笑)なにはともあれ、今年1年のご愛読ほんとうにありがとうございました。来年もぜひともよろしくお願いします。よいお年を!
むつさとし拝