秀吉の誕生日
「つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな なにわのことは 夢のまた夢」といえば関白太政大臣・豊臣秀吉公の辞世句。その秀吉の誕生日が、じつは2月6日です。
関西の祭や寺社仏閣を取材していると秀吉、豊臣家ゆかりのものがわんさかと出てきます。たとえば大阪天満宮の天神祭の太鼓は秀吉が奉納したものと伝えられるし、全国三大山車祭の滋賀県・長浜曳山祭も秀吉の子供の誕生を祝ったことが由縁とか。
また淀殿と秀頼は秀吉の冥福を祈るため、数多くの寺社仏閣を再興しました。列記しますと四天王寺、住吉大社、誉田八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、叡福寺、観心寺、聖神社、北野天満宮、醍醐寺、東寺、石清水八幡宮、鞍馬寺、相国寺、中山寺、西宮神社、薬師寺、法華寺、出雲大社、伊勢神宮宇治橋など。これは「豊臣家の勢力を削ごうと徳川家康が寄進をそそのかした」という歴史的背景があるんですが、ちょっとした名所巡りですわ。
大阪にとって秀吉は所縁の深い人物です。大阪城はもちろん、現在に繋がる商都・大阪の基礎(船場の整備)を作ったのが秀吉ですから。しかし、そのわりに「秀吉の誕生日を祝う祭」が大阪にはないようで、ちと寂しい限り。まさに「なにわのことは夢のまた夢」状態ですな。
ちなみに江戸は家康が整備したように思われがちですが、それはちょっと訂正がいります。というのも、駿河にいた家康に対して「関東に拠点を構えなさい」と移転を命じたのは秀吉ですが、当初は家康は北条家の旧領地だった小田原城(神奈川県)に入ろうとしていました。ところが秀吉は「小田原なんてやめて江戸にしなさい」と諌めるんですな。
当時の江戸は何もない原っぱで、こんなところに都市が作れるか!と当初、家康は秀吉の嫌がらせと認識したようですが、秀吉は「城攻めの名人」ですが、また「城作りの名人」「町作りの達人」なんです。天然の良港と広大無辺の武蔵野を持つ江戸(東京)の大都市発展への地理的優位性を、北条家や家康よりも、誰よりも真っ先に悟っていたんですな。家康も秀吉に言われて、しぶしぶ江戸に居を構えて町作りをすると、この土地の可能性は素晴らしいと認識を改めます。それと同時に秀吉の都市計画の才能にも舌をまいたことでしょう。
「大阪」「東京」という世界的大都市の土台を築いた秀吉の天才は、もうちょっと知られていいかも知れません。