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仏風呂とアンチ廃仏毀釈~従順なる奈良人と、反逆する大阪人

2010 年 3 月 13 日

今日は廃仏毀釈の日です。正確には明治新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に出した「神仏判然令」。天皇の名の下に、神道を国教化しようという下準備で実施された愚行です。寺塔や伽藍、仏像、仏画、仏経典などを有無を言わさずに破却・焼却。とくに酷かったのが明治政府を主導した薩摩藩で、鹿児島にあった1616の寺院は、このとき、すべて破壊されて全滅した・・・といいますから恐ろしいですな。この世紀の蛮行のおかげで鹿児島県は、いま日本でももっとも文化財が少ない県です(ちなみに梅原猛氏などは「明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝は優に3倍はあったろう」と考察してます)。

寺院密集地域の奈良でも激しい廃仏毀釈運動が巻き起こりました。有名なのが奈良の興福寺の廃仏毀釈の話。興福寺といえば、藤原氏の氏寺で南都六宗・法相宗の大本山。これが明治新政府から送られてきた「今日から仏教は廃止。僧侶はクビ。春日大社の神官になれ」という、たった一通の手紙によって、みんな春日大社の神官に鞍替えしてしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA

いまユネスコの世界遺産認定で、国宝の五重塔も、一時期は25円で売られました。こんなのを買ってどうするのか?というと、なんと「薪」にするため。事実、興福寺の僧侶たちは、自分たちが長年、拝んでいた仏像を薪にして風呂を沸かして「仏風呂」なんていってたそうです。幸いなことに買い手が出なかったので五重塔は薪になることはなかったのですが、他の寺院は悉く「仏風呂」にされてしまい、ボロボロになった興福寺境内は、いま奈良公園です。あの鹿が群れをなしている広大な奈良公園は、廃仏毀釈によって崩壊した興福寺境内跡を整備して出来たものです。

兵隊に囲まれて信仰を捨てろといわれたわけでもなく、僧侶が殺されたわけでもなく、たった一通の政府の手紙で、自分たちの信仰対象である仏を捨てた興福寺。なんとも奇奇怪怪、摩訶不思議な話ですが、そういう風にして数多くの奈良の名刹・古刹が自滅してます。結局、明治新政府の権威・権力に奈良人は弱かったんでしょう。これは奈良人の性向かも知れません。

こういう廃仏毀釈に対して「アホちゃうか」と反逆したのが大阪人でした。大阪は日本仏教最初の官寺・四天王寺や蓮如上人ゆかりの大坂本願寺の歴史と伝統を有している日本でも有数の仏教都市で、かつ、お上のいうことには基本的にアンチテーゼですから(笑)中には住吉大社の神宮寺(※1)のように廃仏された例もあったようですが、それでも大阪人の多くは廃仏毀釈を鼻で笑いました。その証拠として大阪府は現在、日本で2番目に寺院が多い都道府県です(1位は愛知県4111。大阪府は2993で2位。3位は兵庫県2854。4位は東京都2672。5位は京都府2643。奈良は19位で1415)。大阪府は非常に狭い都道府県(愛知県は大阪府の2.7倍の大きさ。兵庫県は大阪府の4.6倍の大きさ)なので、面積比で考えれば「大阪こそが日本最大の仏教都市である」といっても何ら過言ではありません。

実際に、大阪のまちを歩いていて、ちょっとした路地裏に入ると唐突に、小さなお寺がひょっこりと顔を出します。廃仏毀釈や戦災を超えて、まちに根付いている。地蔵、祠なんかも非常に多いです。ぼくなんかは大阪のまちの面白さは寺の数の多さ、その多様性にあると思ってます。もっともっと、大阪の寺は着目されてええと思いますな。

(※1)島津藩の始祖・島津忠久公(父・源頼朝 母・丹後局)は住吉大社の境内で生まれ、また関ヶ原で負けて敵中突破をした島津義弘を無事に鹿児島まで船で送ったのも住吉と堺の町衆でした。江戸時代では参勤交代の折には、島津の歴代藩主は必ず住吉大社に参拝していて、住吉と薩摩は非常に縁が深い。住吉大社が神宮寺を廃仏毀釈したのも明治政府(薩摩)との特別の仲があったからでは?とぼくは推測してます。


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