「まわしよみ新聞」についての考察

「まわしよみ新聞」についての考察。

①新聞購入者が増える
ネットニュースの情報ソースの元は、現状は「新聞記事」であることが大半です。市民メディアの記者やフリージャーナリストは記者クラブなどには入れず、行政、企業、その他の記者会見の場にすら、なかなか参加できません。結果としてネット上で取り上げられるニュース記事の取材者は大手の新聞記者であることが多い。ところがネットで無料でニュースを読まれると新聞社には資金が回りません。新聞社の経営が弱体化すると必然的に情報収集能力に支障を及ぼし、記者の質が低下して巡り巡ってネットニュースも劣化していきます。ボルチモア・サン紙の元記者デイビッド・サイモン氏はアメリカ国会でネット情報は既存メディアの情報をコピー&ペーストして、それに対し独自の意見を付け加えたものでしかなく、ネットブロガーや市民記者は寄生虫のようなものと指摘してます。これはかなり偏った意見ですが、「社会の公器」としての、健全なジャーナリズム、取材力を確保するためには、新聞を購読して新聞社に資金を回すという行為が本来、必要なわけで、「まわしよみ新聞」はそれを実践しています。ニュース記事をツイッターでつぶやいて無料で流布する・・・という行為とは異なるわけで、つまり新聞(ジャーナリズム)応援企画であるということです。

②自分の世界を広げる
インターネットは情報の検索性に優れていますが、自分の好きな、関心・興味のある情報ばかりを収集してしまって世界観を狭めてしまう、という弊害が起こりえます。それに対して新聞は自分の興味・関心の範囲外の記事も掲載されています。さらに「まわしよみ新聞」では参加者(他者)の興味・関心のある記事が提示されるわけで、「(同じ新聞を読んでいたのに)そんな記事があったのか?」と気付かされると、まさしく自分の世界観が揺さぶられ、見識が広がっていきます。

③他者を理解する
多種多様な記事が掲載されている新聞の中から、どんな記事を切り取るのか?ということで、その人となり、キャラクター、パーソナリティがわかります。初めて会った人同士でも、「まわしよみ新聞」に参加すると、お互いの共通の関心・興味などが発見でき、一気に親しくなります。会社・組織の新人研修や学校教育(実際に京都精華大学の授業でも実施しましたが大盛り上がりでした)、コミュニティ・センターの集会などのコミュニケーション・ツールとしても使えます。

④プレゼン力を養う
自分が切り取った記事の面白さを他者に伝えようとするさいに、ただ新聞を読み上げるだけでは、なかなか興味・関心を示してくれないときがあります。そこには記事の魅力を、実感を伝えるプレゼンテーションが必要になってきます。記事を提示するまえに「これは正直、ビックリしたねぇ・・・」なんていって期待を煽ってから記事を提示するとか、「これはいまいちなんやけど・・・」とブラフをかましながら提示するといったテクニックもあります。記事の内容ではなく「ビジュアル、写真が面白い」「(自分の)ひとこと、解釈がユニーク」といった場合もあります。それぞれの記事に応じた提示の仕方があって、これは一種のプレゼン合戦、カードバトルのようなもので、参加者は参加するに連れて自然とプレゼンテーション能力をつけていきます。

⑤新聞=パブリック・メディア(世論)を、まわしよみ新聞=コモンズ・メディア(世間)にする
「まわしよみ新聞」を作ると、新聞の一面トップ記事が切り取られずに、スルーされる・・・ということが、しばしば、頻繁に起こります。これは新聞とは主に「世論」を扱うメディアであるからです。「世論」というのはひとことでいえば、顔が見えません。誰が発信して、誰に伝えようとしていて、そうすることでなにが起こりえるのか?そういう関係性や因果関係が、まるで見えない情報発信は、よくよく考えると非常に不気味で、不安なものです。例えば「内閣支持率は20パーセントです」と書かれた記事を読んだときに、その言葉の意味するものの曖昧模糊さ、胡乱さったらありません。それで、その記事を読んだぼくらは、一体、なにを、どうすればいいのか?さっぱりわからないわけです。それに対して「まわしよみ新聞」は「世論」ではなく、「世間」を扱い、「世間」の中でメディアを構築しようという試みです。「世間」とは顔が見える関係性です。「この記事が好きだ」「これは嫌い」「意外と面白い」と参加者から聞くことで、「顔が見えない記事」でも「顔が見える記事」になります。参加者のAさんから「内閣支持率20パーセントらしい。おれはこの内閣、応援してるんやけどな」といわれながら記事を提示されると、じつに、すんなりと、その記事を消化できます。世論的(それは匿名的、無責任的、大衆的と置き換えることもできるでしょう)な記事が、その記事を切り取って提示する参加者の「顔」や「声」や「感情」や「意見」という「身体性」を通じることで、俄然、リアルな、生の情報となり、記事に血肉が通い始める。世論ではなくて、世間のメディアであること。これが「まわしよみ新聞」の醍醐味です。

⑥誰でも参加できる(「アナログ的手法」による市民メディア)
「市民メディア」「市民ジャーナリズム」の必要性が叫ばれて久しいわけで、その実現としてデジタルツール、デジタルサービス(ブログやネットラジオ、動画投稿サイト)が隆盛を誇ってますが、しかし、そうしたサイトを覗き込むと、あまりにも膨大な数の情報ソースに頭がクラクラしてきます。この訳分からんぐらい巨大なデジタル情報量の嵐の中では、自分の意見や情報の発信など、ほぼ完全に、100%、黙殺されます。そうした中でも浮かび上がるような「良質な記事」を書けるような記者やブロガーを作ろう!プロの先生に講座をしてもらって勉強しよう!といったような動きもありますが、これまた正直、なかなか難しい。文字で情報を伝えるということは、それなりの技術やテクニック、修練が必要で、一朝一夕での習得は不可なものです。「語り」や「動画」でもまったく同じことがいえます。出来ないとはいいませんが、非常に困難。ニコ動で人気の動画には「プロの犯行」というタグがつきますが、実際に、字義通り、じつは「プロの反抗」であったりします。デジタルツールやデジタルサービスを上手に利用できて、さらに「ええ記事」「おもろい語り」「秀逸な動画」なんてのが作れるひとはいいんですが、大部分、大多数の市民はそうではない。しかし、そういう高いハードルを飛び越えられない人でも、情報発信する機会があっていいし、むしろ、そういう人たちの声をどういう風に拾い上げていくか?が現状の市民メディア、市民ジャーナリズムの課題です。それに対して「まわしよみ新聞」の参加者は記事を書きません。規正の記事、プロが書いた記事を選択するだけ。自分で「ええ」「おもしろい」「良質だ」と思った記事をハサミで切り取って、みんなの前で提示して、それを読み上げるだけ。さらに、みんなが提示した記事についてディスカッションして「これがいちばんよかった!おもろかった!」という記事をトップ記事として台紙の一面に張っていくだけです。そうやって「まわしよみ新聞」は出来上がりますが、これは新聞というパブリック・ニュースをモチーフにして、市民の場(コモンズ)が再編集するということで形成される市民メディアです。場の参加者のみにしか伝わりませんが、非常に発信力や伝播力は弱いかも知れませんが、しかし、誰にでも簡単に出来る「市民メディアの情報発信手段」ではあります。要するに徹底して「アナログ」なんですな。みんなを集めて場を作って、新聞を集めてチョキチョキして、みんなで記事の重要度、関心度の序列を決めて、それをスクラップにするだけですから。しかし、「デジタルな市民メディア」が多いなか、こういう「アナログな市民メディア」は非常に有用であると考えるし、社会全体が「多様な市民メディアの方法論」を持つことが、市民メディア全体の底上げに繋がり、市民社会の成熟に必要なことだろうと考えています。

⑦新聞によって「場=コモンズ」を作り、「ぼくらの新聞」にする
新聞の発祥は諸説ありますが、17世紀イギリスの「コーヒー・ハウス」から誕生したという説が有力です。コーヒーを飲みに集まる男性たちが夜通し、侃侃諤諤の政治談議をつづけ、「それは面白い!書き留めておこう。みんなに教えよう」という行為が、いつしか「新聞」という情報メディアへと結実したわけです。つまりコーヒー・ハウスという「場=コモンズ」から新聞が誕生したわけです。「まわしよみ新聞」は、じつはその逆で、参加者がいろんな新聞を持ち込んで、自分の興味本位の記事を切り抜いて、それを掲示して話し合うことで、「場=コモンズ」を創出しようという実験です。また元々、新聞というものは市民や町衆主体の、コモンズ的なメディアであったはずなんですが、それが巨大化し、いつのまにか官僚や国家、企業、資本家のメディアとして利用されていることへの、ちょっとした、ささやかな違和感の表明でもあります。「新聞をぼくらの手に取り戻す」。ひとことでいうと、そういうプロジェクトです。

⑧「新読」を、ちゃんと「新聞」にする=新聞メディアの原点回帰運動
「まわしよみ新聞」を作りながら、なぜ、このニュース記事が「一面記事」であらねばならぬのか?・・・と思うことがしばしばあります。一体、誰が、この記事をトップに選んでいるのか?この序列構造の不透明さに、胡乱さに、ブラックボックスに、どうにもこうにも首をかしげてしまう。これらの「一面記事」が、結果として大衆を操作する「世論」というものを構築するのだとすれば、こんなに恐ろしい話はないわけで。この匿名的な、仮面的な記事の序列は、一種の呪詛ともいえます。その危険性を、恐ろしさを、ぼくらは、やっぱり、ちゃんと認識しておかないといけない。それに対して「まわしよみ新聞」の一面記事は、場の関係性や人との対話によって序列が決まります。記事をひとつ切り取る。それを話し合う。そうすることで、その人の意見や想い、個性、センスが把握できるし、「他者」がわかる。人間と人間の関係性・・・つまり、「世間」というものの確かさに繋がっていく。そう考えると、新聞が「新読」ではなく「新聞」であるのは、非常に意味深いわけです。「新読」・・・つまり記事を、ただ単に「自分ひとりで読むだけ」であれば、それは単に「自己消化する情報媒体」に過ぎないわけです。しかし、本来、新聞というものは、やはり「新聞」と書かれているように、その記事は「他者の声」を介在して「聞く」ものです。そうすることで、ようやく、新聞はほんまもんの「新聞」たりえる。(実際にロンドンのカフェの侃々諤々の論議=「他者の声」の中から新聞が誕生したわけですから)新聞を、「新読」ではなくて、ちゃんと、「新聞」にすること。新聞に「他者の声」を介在させる。そうすることで、ぐっと新聞は、面白くなります。そう。つまり、「まわしよみ新聞」とは、新聞の原点回帰運動であるわけです。

⑨大阪発の市民メディア
現存する最古の「かわらばん」は「大坂夏の陣」。宮武外骨の伝説の「滑稽新聞」も大阪で誕生し、日本の四大新聞のうち朝日も産経も毎日も元は大阪発祥です。つまり新聞は大阪に非常にゆかりの深い情報メディアということです。「まわしよみ新聞」は、そんな400年に渡る大阪新聞文化の最先端を担っています。たぶん・・・。


2012年 11月 13日
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