昨日の「大阪七墓巡り2015」にご参加いただいた米田量さんのブログより。米田さん、さっそく感想を書いてくれました。「物語」とか「ケア」といった観点から大阪七墓巡りを考える。非常に興味深いレポートです。ありがとうございます^^
昨日の「大阪七墓巡り2015」にご参加いただいた米田量さんのブログより。米田さん、さっそく感想を書いてくれました。「物語」とか「ケア」といった観点から大阪七墓巡りを考える。非常に興味深いレポートです。ありがとうございます^^
例年、大阪七墓巡りは「歩き」とか「語り」といったものを主軸に構成してきました。今年はそれに「歌い」とか「踊り」といったものを重ねてます。例年より共同身体行為が増幅されている。いままでの大阪七墓巡りの参加者はパフォーマーやアーティストの墓跡での供養やレクイエムをただ鑑賞するという立場やったんですが、夏子さん、寅雄さんのおかげで、そこから一歩踏み込むことができたんですな。また共同身体行為も「決め打ちのダンス」とか「定まった歌」とかではなくて即興の参加型で、なるべく「あいだにあるもの」「中をとる」「(ジャンケンでいうところの)あいこ状態」を拡張・拡大する。そうすることで(文化人類学者V・ターナーがいうところの)コミュニタスの時空間が発生しやすくなり、結果、自・他(此岸と彼岸、この世のあの世)の境界線が融解する・・・。
自・他という話を繋げると「盂蘭盆経」にも以下のようなエピソードもあります。神通第一の目連は天眼によって自分の亡母が餓鬼道で逆さ吊りにされている白昼夢を見た。哀れにおもって食物を差し出すが、食物は炎となって施しができない。釈尊に亡母を救済する方法を問うと施餓鬼(無縁仏に食物を施しなさい)をしなさいと答えた。その通りに実行すると無縁仏の中に亡母がいて救済することができた。無縁仏は確かに他者なんですが、また同時に自分の愛する者たち、自分自身に他ならないという話。
他者と当事者はぐるぐるまわって円環構造にある。
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■降りていくブログ「大阪七墓巡り お盆編」
http://kurahate22.hatenablog.com/entry/2015/08/14/051117
世界から感じ取られた抑圧や恨みつらみ、救われなさとはそのまま自分のなかにあるもの。死者や無縁仏とは、共同体の価値から排除された自分自身。世間に否定され孤独で惨めな自分自身だ。人は生き残るために様々な側面をもつ自分をある時は積極的に、ある時は不本意に殺し、抑圧する。無縁仏や死者の気持ちを想像し、寄り添うことは自分で捨てた自分にもう一度目を向け、ケアすることに他ならないだろう。
昨日の「大阪七墓巡り2015」にご参加いただいた米田量さんのブログより。米田さん、さっそく感想を書いてくれました。「物語」とか「ケア」といった観点から大阪七墓巡りを考える。非常に興味深いレポートです。ありがとうございます^^例年、大阪七…
Posted by 大阪七墓巡り復活プロジェクト on 2015年8月13日