ベネディクト・アンダーソン死去
2015 年 12 月 15 日
ベネディクト・アンダーソン死去。今年の年末どないなっとんねん。
「いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖餐(コミュニオン)のイメージが生きている」
「想像の共同体は、我らが青年が読んでいるということを我々が読むという二重性によって確認される。彼はぬかるんだスマランの道端で貧しい浮浪者の死体を見るのではない。新聞の活字から想像するのである。彼は死んだ浮浪者が一体だれなのか、そんなことはまったく気にしない。彼が考えているのは浮浪者が代表する人間集団であって、一人の人間の生ではない」
国民(ナショナリズム=想像の共同体)は新聞を読むことで国民(ナショナリズム=想像の共同体)となる。まわしよみ新聞は、じつは無縁の、コミュニオン無きネット・グローバル社会において、一時的な擬似『想像の共同体』体験(まわしよみ新聞)をすることによって、他者性(他者ってのは自分の境界認識がないと成立しませんからな)を考えるコモンズ(公の場ではなくて共の場)的な視野を獲得できへんやろか?…という社会実験です。ベネディクト・アンダーソンなら、これ、なんというかな…。
なにはともあれ、合掌。
ベネディクト・アンダーソン死去。今年の年末どないなっとんねん。「いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、…
Posted by 陸奥 賢 on 2015年12月13日
カテゴリー: 雑感