ふと應典院寺町倶楽部発行の『サリュvol.101』を読むと、ぼくが光軌くんと企画したオープン台地2016企画「禅画騙り語り」(ぜんがかたりかたり)のことが掲載されてました^ ^
應典院へ!いまから打ち合わせです。
ふと應典院寺町倶楽部発行の『サリュvol.101』を読むと、ぼくが光軌くんと企画したオープン台地2016企画「禅画騙り語り」(ぜんがかたりかたり)のことが掲載されてました^ ^
参加者に禅画の中の登場人物になってもらい、「これはいつ?」「どこ?」「なにをしてるの?」「このあとどうなるの?」などと参加者同志で質問してもらう。不思議なことに、いつのまにか禅画の中の登場人物に成りきれるもので、ポンポンと言葉がでてくるんですな。禅画の世界の「すきま」がそうさせるんやと思いますが、禅画は意味不明で、ナゾで、とても豊かな余白に満ち溢れている。
他者になって、他者を騙って、はじめて語りとなる。伝統の語り(エトス)がない近代人に、どうやったら「騙り=語り」の可能性を感じてもらえるか?と思って作りました。
近代人は「自分を語る」ことばかりやらされてますからな。「わたしはこう考えます」「わたしの意見はこうです」「わたしのプレゼンはこうです」と「わたし」から一歩も外を出ない。「自我」を越えない。それでは語り(騙り)とはならない。「わたし」でないものになる体験からでこそ、ほんまもんの語り(騙り)が産まれてくる。伝統の語り…能も浄瑠璃も歌舞伎も落語も演者の「自我」ではなくて「他者」となりきってる。騙って語る。そこが面白いわけです。
「禅画騙り語り」は、いろいろと可能性を感じました。またブラッシュアップしてやりたいですな^ ^
應典院へ!いまから打ち合わせです。ふと應典院寺町倶楽部発行の『サリュvol.101』を読むと、ぼくが光軌くんと企画したオープン台地2016企画「禅画騙り語り」(ぜんがかたりかたり)のことが掲載されてました^ ^参加者に禅画の中の登場…
Posted by 陸奥 賢 on 2016年1月11日