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應典院コモンズフェスタ2016「浪花お化髪行列」トーク

2016 年 1 月 27 日

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大阪、花街の文化に、かつて「お化け」というもんがありまして。元旦、節分の祭ですな。

元旦、節分いうんはめでたい。年が明ける。ハレの日ですわ。せやけど、昔の人は数えで歳を経ますから、元旦、節分になるいうことは、ひとつ歳を取る。歳を取るということは、それだけ、一歩、死に近づく。「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」。一休宗純の狂歌ですが、要するに元旦、節分いうんは「ハレとケ」が一緒くたの日なんですな。福と鬼が一緒くたにやってくる。せやさかい「福は内、鬼は外」と豆をまく。福だけ中に入れて、鬼はカンベンというわけですが、こういうのは一年の中でもかなり珍しい日なんですな。

それで、こういうハレとケが一緒くたにやってくる日に、男は女になり、女は男になり、幇間は旦那になり、番頭は丁稚になり、人間は異類になり、生者は死者になり…と「普段の自分ではない何者か」になることで、厄やら鬼やらはそちらの「普段の自分ではない何者か」に被ってもらい、幸やら福やらは「普段の自分」に頂こうというのが、花街の「お化け」なわけです。

近代というんは「自分の意見をもて」「個を尊重しろ」「近代的自我を確立せよ」とか教育されます。しかし「自分」「個」「自我」なんて曖昧模糊なもんで、生きていく上では、なんの拠り所にもならんのですわ。事実「お化け」をすると、あっというまに人間は「普段の自分ではない何者か」になってしまう(コスプレ趣味の人や腐女子のみなさんもこうした経験はしてるはずw)。こういう経験は大事です。近代的自我なんて、なにかをキッカケにして、簡単に揺るがされるし、ほんま人間なんて、ちょっとしたことから、なにをしでかすかわかったもんではない。犯罪というんも、いまはたまたま犯していないが、いつ、なんどき、なにかの拍子に、ふと魔が差して、やってしまうかわからん。それぐらい、自分とか個とか自我というもんは弱い。それをやらないでいられるんは、たまたまの幸運であるし、なにか大きな存在のおかげや…というんが浄土宗でいうところの「他力」という発想の原点ともいえますw

ちなみに、この「他力」とはベクトルが全く正反対の位置にあるんが、新自由主義者が大好きな「自己責任」っていう情け容赦ない断罪の言葉やと思ってますが、阿弥陀さんの「他力」を説く浄土宗のお寺である應典院がコモンズフェスタ(共有の祭)を標榜して「お化け」をやる…というんは、ぼくはこうした意味で、オモロイなあと思ってます。

画像はImenさんからシェアしましたm(_ _)m 應典院コモンズフェスタ2016の企画「浪花お化髪行列」にて、ぼくが太夫のお化けをしたみなさんに夕霧太夫やら新町遊郭の話をしているところ。個人的には楽しい時間でした。みなさん、ありがとうございました^ ^

大阪、花街の文化に、かつて「お化け」というもんがありまして。元旦、節分の祭ですな。元旦、節分いうんはめでたい。年が明ける。ハレの日ですわ。せやけど、昔の人は数えで歳を経ますから、元旦、節分になるいうことは、ひとつ歳を取る。歳を取るという…

Posted by 陸奥 賢 on 2016年1月26日


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