2012年の大阪大学での「まち歩きリーダー養成講座」のレジュメw
2012年の大阪大学での「まち歩きリーダー養成講座」のレジュメw
この「まちの時間」というものを考えだしてから、ぼくは「死者」(かつてまちに存在した人)とか「未来者」(やがてまちに存在する人)という存在との邂逅を考えるようになります。それは「他者」であったし「見えないもの」でもあり、こうした「非言語なもの」とどうコンタクトするか?というのが「大阪七墓巡り復活プロジェクト」や一連の「コモンズ・デザイン」(コモンズはひとことで言えば「他者が漂える余白」)や「蚕」「鯰」「狸」「亀」「魔女」といった「異類」に着目するプロジェクトにまで広がっていきました。
「陸奥は、なにしてるかようわからん」とよう言われますが、ちゃんと「観光」という立脚点からは、まったくブレてないんです。一応。ぼくの中ではw
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「まち歩き」とは、結局のところ、まちの概念を高次化することです。
世間一般でいま言われている「まち歩き」というのは、じつは全くまち歩きではなくて、単なる観光名所をスポットとして捉えて巡っているだけの「点のまち見学」です。
まちというのは、スポットとスポットのあいだにも、当然のように展開しています。そこをちゃんと体感して「線のまち歩き」を認識させないといけない。だから、「歩く」という連続性のアクションを必要とするわけです。
さらに「線のまち」を高次化するのに必要なのが「ひと」という横軸的存在で。まちを歩きながら、ひとと出会うことで、そのまちのコミュニティを知ることで、まちの関係性が見えてくる。まちが横にスライドして、多様性を獲得し、さまざまな人間が介在している「面のまち」として捉えられてくる。
最後に必要なのが、「時間」でまちやひとを捉えるという縦軸の動きで、まちもひとも、ある日いきなり誕生するものではないわけで、そこには過去からの連続性があり、そして、未来への可能性が存在している。まちの時間というのが、「歴史」や「ドラマ」や「物語」や「伝説」や「伝承」で、ひとの時間が、そのまちへの「感情」や「記憶」や「想い」というものです。そこを語ることで、ようやく、まちは「立方体のまち」となり、そこを体感することが、「ほんまもんのまち歩き」で、ぼくが理想とするものです。
こういうまち歩きを日本全国でやってほしいなぁと思っているのですが・・・。