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「大阪七墓巡り復活プロジェクトについて」陸奥賢(観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者)

2020 年 8 月 31 日

大阪七墓巡り復活プロジェクトについて
陸奥賢(観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者)

1 大阪七墓巡りとは?
かつて大阪には都市近郊の墓地を7カ所お参りして無縁仏を供養する「大阪七墓巡り」という風習があった。あまり詳しい史料などはなく、いつの時代から始まったのかよくわかっていないが、浄瑠璃作家の近松門左衛門が七墓巡りを盛り込んだ『賀古教信七墓廻』という作品を書いている。『外題年鑑』によると「元禄十五年七月十五日上演」とあり、こうした記録から推察すると元禄(1688~1704)の頃には、すでに七墓巡りの風習は成立していて、芝居の演目になるぐらいには、当時の大阪の町衆のあいだでも一般認知されていたものと思われる。

七墓巡りは盂蘭盆会の頃に実施され、近松の『賀古教信七墓廻』が「旧暦7月15日初演」なのも、そうした時期を意識してのことだろう。また初演時には地獄や賽の河原の情景などを人形で見せる趣向などもあったという。『正本近松全集』の「解題」では「惨酷無惨で奇怪極まる幼稚な作品」と酷評されているが、いかにも子供騙しの趣向に感じられ、実際に当時の観客も微妙な反応だったようで、『賀古教信七墓廻』は一度だけの上演で、これ以降の再演の記録はないという。

いろいろと謎めいた風習だが、七墓の所在地についても不明確な部分が多い。『賀古教信七墓廻』では第四段「夏野のまよひ子」の中に七墓が登場してくるが、その原文を抜粋すると「あだし煙の梅田の火屋」「短か夜を誰が慣わしの長柄川」「道のなき野原笹原葭原の」「泣き泣き歩む夏草の蒲生」「それとも知らで別れ行末は小橋の」「寺の鐘の聲高津墓所に夕立の」「煙知るべに千日の」「これぞ三途と一足に飛田の」と近松お得意の掛詞で調子よく次々と大阪の墓地が登場してくる。
しかし、よく読むと「①梅田」「②長柄」「③葭原」「④蒲生」「⑤小橋」「⑥高津」「⑦千日」「⑧飛田」と七墓巡りであるのに、なんと「8カ所の墓地」が紹介されている。

これは一体どうしたことか?と他の文献を調べてみると、大正15年(1926)発行の『今宮町誌』(編纂:大阪府西成郡今宮町残務所)の「木津の墓」に七墓の場所が記されていた。それによると「木津の墓は古来大阪の七墓、即ち千日前、梅田、福島、天王寺、鵄田、東成郡榎並と同じく七墓の一に加へられた場所」とあった。

他にも昭和10年(1935)発行の『郷土研究 上方』(編者:南木芳太郎)「上方探墓號」では、「その場所は時代によって多少の変遷があり、又振出の都合にて手近の墓所のみを巡った形跡もある。その場所を挙げると、北よりすれば梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、高津、千日、飛田辺りが古い時代のもので、明治になると長柄、岩崎、安部野辺りが加わっている、その他、安治川、大仁、野江等の三昧も七墓巡りの中に入れねば成るまい。もっと小さな墓所も場末にはあったであろう」とあった。

整理すると『賀古教信七墓廻』の8ヶ所以外にも「⑨木津」「⑩福島」「⑪天王寺」「⑫榎並」(以上『今宮町誌』より)「⑬南浜」「⑭岩崎」「⑮安部野」「⑯安治川」「⑰大仁」「⑱野江」(以上『郷土研究 上方』より)と合計18カ所の墓が七墓として紹介されている。他にも文献を渉漁すれば、その数はさらに増えていくのではないだろうか。

要するに盂蘭盆会に大阪市中界隈にあった墓を「どこでもいい」ので、7カ所巡れば大阪七墓巡りとして結願したと筆者は推測している。ルール(?)としては、非常にゆるやかで、おおらかな墓参りといえる。

また七墓参りをすると「自分の葬式の時に晴れる」というご利益があったという。筆者などは自分はすでに死んでしまっているので、自分の葬式が晴れていようが雨であろうがどちらでも構わないように思うが、とても慎ましい(?)ご利益ではないだろうか。ちなみに堺の民話集『わがまちの今・むかし 南八下の民話』に「堺の七墓巡り」の記述があり、それによると「嫁さんが七墓巡りを7年間することで元気に暮らせる」といったご利益があったと伝わっている。「願い事が成就する」とか「良縁に恵まれる」といった現世利益と違って、「自分の葬式が晴れる」という微妙なご利益(?)もユニークに感じている。

2 七墓を巡っていた無縁の者たち
七墓巡りの場所も不明だが、参加者たちについても、正直なところ、どのような人物であったのか?というのは、よくわからない。「講社」のようなものがあったのかも知れないが、「無縁仏を供養する」ということは、死者との生前の交流の有無や関係性が問われない。誰でも参加可能な風習であり、「他者の集まり」「無縁者の集まり」によって実施された風習といえる。

参加者に関して何か記述はないか?と『郷土研究 上方』の「上方探墓号」を調べてみると、「今は途絶えたが、貞享、元禄の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると心ある人々は七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向したものである」とあった。つまり、無縁仏を供養する人々というのは、仏教心に厚い、慈悲の精神を持った「心ある人々」だということだろう。確かに現代の墓参りは基本的には近親者や知人、友人といった自分と何かしらの関係がある「有縁の死者」を墓参りするものだから、わざわざ「無縁の死者」を墓参りするのは、「心ある人々」のように感じられなくもない。

ところが「無縁者の集まり」なだけに、ちゃんとしたお参りの統制(?)などもとれなかったようで、延宝8年(1680)刊行の『難波鑑』(一無軒道治著)の「法善寺墓参」には「いつのころよりか、この寺の墓参りとて、7月1日より、その月のくるるまで、毎夕大坂の男女、老若貴賤によらず、この寺に詣できたるありさま(中略)わかき人々は色にそみ、あるひは酒宴なんどを催しざれめき遊ぶ人がちにして、あるひはいきほひ猛にののしり、はては喧嘩して法場をけがす人あり(中略)かかることをしても物詣と、いふべきや、をそるべくつつしむべし」と非難する記述が残されている。

「法善寺墓参」なので、これは七墓のうちの1つである千日墓地界隈の光景だろうと思われるが、若者たちは遊女と戯れたり、酒宴で羽目を外して墓場で喧嘩をするなど、乱痴気騒ぎもあったという。どうも七墓巡りをやっていたのは、宗教心に突き動かされた、殊勝な「心ある人々」だけではなかったことがわかる。

また七墓巡りの参加者は、鐘や太鼓を鳴らして歌舞音曲と共に巡ったそうで、これは『郷土研究 上方』の挿絵「盂蘭盆会七墓巡り之図」(長谷川貞信)をみても、陽気な一団が街中を練り歩いている様子が伺える。

供養というようは一種の演芸、遊興、娯楽のような晴れやかな雰囲気が感じられ、現在でいえば「盆踊り大会」のようなものに近い。筆者も子供の頃に盆踊り(先祖供養)よりも屋台が楽しいと思った記憶があるが、七墓巡りも無縁仏の供養を一種の大義名分にして、町衆のレクリエーション、エンターテイメントといった要素が強かったように思われる。

また、夏の暑い盛りであるので、七墓も徒歩だけではなくて舟を使って巡っていたと思われる。江戸時代の大阪はどこにでも川が張り巡らされていたし、芸妓衆を共にして、優雅に舟遊びをして、一種の肝試し、余興として七墓を巡るような連中もいたのではないだろうか。

実際に、筆者は大阪七墓巡り復活プロジェクトで毎年、七墓を巡っているが、総距離は20キロを優に超える。徹夜で歩いたこともあるが、これはかなりの苦行で、参加者はどんどんと脱落していき、最初は50名ほどいたのに、ゴールする頃には15名ほどに減っていた。昔の人は健脚だったというが、20キロの距離は、さすがに酒などを飲んで巡れる距離ではない。やはり舟なども使って、悠々自適に巡っていたと思われる。

ちなみに七墓巡りの参加者がどれぐらいいたのか?その数なども不明だが、七墓のひとつである南浜墓地近くの浄土宗寺院・源光寺境内には「七はか道」と刻まれた貴重な石碑が現存している。こうした案内の石碑が必要なほど、大勢の参加者が七墓を巡った…ということなのかも知れない。

3 無縁仏には夏の陣の死者が含まれる?
さて、こうした「無縁仏の供養」という不思議な風習が、江戸時代の大阪で成立していたことは非常に興味深いが、これはまず第一に都市という「場」(トポス)の影響が大きいだろう。

例えば、村落の風習などは、基本的には先祖代々の土地に生きる人々の中で育まれる。その風習の多くは有縁の村落社会の繋がりを再確認する仕組みとして機能している。宮座や講社があったりして、外部の者、余所者、他者は、村の神輿や山車、太鼓などには触ったり、担いだりはできない。有縁の、同一の価値観、共通の世界観の持ち主だけが許容されたり、尊重されたりして、無縁の、異なる価値観や理解できない世界観の他者には、自然と排他的な構造になっていることが多い。

しかし都市はそもそも無縁の人々の集まりで構成される。戦後の日本社会でもベビーブームを迎えて爆発的に人口が増えたが、長男は家や田圃を受け継ぐが、次男、三男などは受け継ぐ家や田圃などはなかった。結果として長男以外の息子や娘たちは、夜行列車に乗って、東京や大阪、愛知といった大都市に移住して、高度経済成長の担い手(俗にいう「団塊の世代」。当時は「金の卵」などといわれた)になっていった。

そういった大都市では流入人口が多いので、他者だらけになり、「隣に誰が住んでいるかわからない」といった環境が自然発生するが、じつはこの「他者性」「無縁性」こそが、都市の都市たる基礎条件となる。みんな同じような他者であり、無縁の存在であるからでこそ、都市で自然発生する風習は有縁や無縁ということに、それほど頓着しない性質を帯びるのではないだろうか?

そして、このような戦後大阪の「隣に誰が住んでいるのかわからない」という社会状況は、じつは江戸時代初期の大阪でも起こった。ご存じのように大阪は桃山時代(1583~1598)には豊臣武家政権の首都であったが、大坂夏の陣(1615)に徳川方に敗北して、すべてが灰燼、焦土と化してしまった。

当時の様子を伝える古文献によれば「大坂にこもりたる衆は、命ながらへたる衆は、ことごとく具足をぬぎ捨て、裸にて女子もにげちる」(大久保彦左衛門『三河物語』)とあり、つまり戦闘員だけではなく大阪城周辺にいた非戦闘員(町衆、女、子供など)も惨殺されたと記述されている。

また、「多くの人は約10万人が死んだと言い、町の中で殺された人々のほか、合戦が行われた周辺も死体で埋まっていた。大坂の川(大川)は水が豊富で非常に深いだけに、敵の武器や火事を免れようとした多くの人々のために、かえって墓場と化した。川底は死体で埋もれ、向岸へ渡ろうとすれば、その上を歩かねばならないほどであった」(『切支丹研究第17集 耶蘇会史料』)といった記録などもある。

大阪は古くは蘇我・物部の争いや、戦国時代の石山本願寺の戦いなど、歴史上、何度も戦乱にあっているが、中でも太平洋戦争時の大阪大空襲の被害は甚大だったとよく語られる。昭和20年(1945)10月の大阪府警察局の調べでは大阪府域では死者1万2620人、行方不明者2173人で、約1万5000人もの犠牲者が出たと記録されている。大変、痛ましい悲劇だが、しかし大坂夏の陣では約10万人(どこまで事実であるかわからないが)もの人々が殺されたというのだから、じつは大阪大空襲よりも大坂夏の陣こそが、大阪という都市が経験した史上最大のジェノサイドだったといえるだろう。まさに大阪は、どこを歩いても血で汚され、累々たる死者が横たわる「ネクロポリス」(死者のまち)となってしまった。

その後、江戸幕府の主導で、大阪復興が行われるが、そのさいに日本全国各地から集団就職のように町衆が集まってきたが、彼らの多くは、戦国時代の長い戦乱によって、主君や土地を失った武家だった。

実際に、元禄時代に、あまりの財力で商人の分限を超えていると幕府から咎められて闕所(財産没収)処分を受けた伝説的な大阪豪商の淀屋は元は信長に滅ぼされた岡本家の子孫であったし、また現在まで財閥として現存している住友家は秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣の子孫であり、鴻池家もまた毛利氏に滅ぼされた山中鹿之助の子孫であった。

こうして先祖伝来の土地や故郷を奪われた無数の敗北者たち、流れ者たち、無縁者たちの懸命の働きによって、江戸時代の大阪は、商業流通都市「天下の台所」として、劇的に復活、発展していく。夏の陣(1615)から「浮世」と浮かれ騒いだ元禄時代(1688~1704)に至る経済成長のダイナミズムは、じつは戦後の高度経済成長に匹敵するほどの規模とエネルギーであったのかも知れない。

ただ、江戸時代と戦後と決定的に違うのは、江戸時代は絶対封建社会の世の中で、商人階級は社会的に差別、抑圧されていた存在だった。なにか商人が武士に対して不届きなことをすれば、「無礼打ち」をしても許される(『公事方御定書』71条)という恐ろしい時代で、どれだけ富を蓄積しようとも、本質的に商人の社会的な立場は弱かった。幕府の財産没収の命令で、有無を言わさずに、あっというまに潰されてしまった大豪商の淀屋などは、わかりやすい事例だろう。

そして筆者が思うに、こうした社会的弱者の最たるものが、誰にも供養されない死者=無縁仏であるので、当時の大阪の町衆が無縁仏にシンパシー(同情)やエンパシー(共感)を持つのも不思議はなかったと推察している。そういった商人の社会的抑圧から無縁仏を供養する大阪七墓巡りの風習が起こったということも考えられる。

また七墓のひとつとして挙げられる野江墓地は、仕置き場(刑場)でもあり、ここは夏の陣の跡に豊臣の残党を処刑した場所であるという。であるならば、七墓巡りで供養する「無縁仏」というのは、じつは「豊臣方の死者」も含まれてくる。江戸時代は徳川の天下であるので、公に「豊臣家の死者供養」はできない。なので大阪の町衆たちは「無縁仏を供養する」といいながら七墓を巡りつつ、じつは「豊臣方の遺恨」や「非戦闘員の大量虐殺」といった「ネクロポリスの記憶」を密かに伝えていくといった意味や意義も七墓巡りにあったのではないだろうか? 

とくに当初、七墓巡りをはじめた町衆たちの中には豊臣方の武家、豊臣の関係者の子孫も数多くいたと思われる。まだそれほど夏の陣から時を経ていないので、夏の陣のジェノサイドの記憶は新しく、より七墓巡りには豊臣方の死者の供養の意味合いが強かっただろう。それが元禄時代(近松が『賀古教信七墓廻』を書いた頃)ぐらいから、多様な人々が参加してきて、演芸化、遊興化、娯楽化していったのではないか?と、筆者は推察している。

4 七墓巡りの謎の消滅
こうして江戸時代に一世を風靡した七墓巡りだが、明治以降は一気に廃れて、昭和には完全に影も形も無かったという。なぜ、なくなったのか?の理由も不明な部分が多いが、大阪が近代化するに当たっての都市改造で、墓地の移転や統廃合されたことの影響は大きかったと筆者は推測している。

例えば大阪市域の北側にあった梅田、南濱、葭原の墓地などは、長柄墓地(現在の大阪市移設北霊園)に移り、小橋、千日、飛田などの大阪市域の南側に位置する墓地などは阿部野墓地(現在の大阪市設南霊園)に移転された。

墓が点々とあるから、それらの点を繋ぐライン(線)が巡礼の街道となるが、点が集約されてしまうと、ラインがそもそも発生しない。結果として巡礼がなくなると、道中の遊興がなくなる。歌舞音曲で練り歩いたり、酒を飲みながら舟を出すといった「遊び」が成立しなくなることで、七墓巡りは人気を失ったのではないだろうか。

さらに江戸時代は町の管理だった墓地が、行政の監理になったので、七墓巡りなどは旧弊な悪習と見なされて排除されたことも考えられる。近代国民国家や近代都市というのは住所不定の流民などを嫌う。税の徴収や兵役の義務を課すためには、必ず国民一人一人を住所などで管理することが必要で、七墓巡りのような「無縁者の集まり」などは、いかにも反社会的(反近代的)で、けしからん行事と目される。無縁者の集まりで、講社のような組織がなかったことも、七墓巡りの風習があっというまに廃れ、雲散霧消することにも繋がったように思われる。

また、「豊臣方の供養」という意味合いが七墓にあったのだとすると、時代が徳川の時代から明治維新で変わり、正々堂々と豊臣の供養ができるようになった影響も大きいのかも知れない。明治新政府は幕府否定、徳川否定のために、逆に秀吉や豊臣方の人物を大いに褒め称えて顕彰したりもしたので、豊臣方の関係者の子孫は「無縁仏を供養する」なんてことを隠れ蓑にして七墓巡りをしなくてもいいようになったし、先祖、祖霊の名誉回復によって、溜飲が下がる思いをしたことだろう。

いま現在、七墓のほとんどは繁華街(梅田、千日)や住宅地(葭原)、公園(小橋)、道路(飛田)などに変貌してしまい、地元住人も自分のまちが元墓地であったことなどすっかり忘れてしまっていることが多い。

ちなみに、よく聞かれるのが、なぜ「七つの墓」なのか?「七」という数字の意味は?という謎なのだが、これも正直、よくわからない。

しかし、かつて七墓のひとつの千日刑場の前には蓮登山自安寺があった。この自安寺は妙見堂や能勢妙見遥拝所を構える妙見信仰の寺院だったという。妙見信仰というのは北極星、北斗七星を崇める星辰信仰で、妙見菩薩はその中心に位置する北極星の象徴仏という。北極星は北の夜空にあって、決して、位置が変わらない。茫洋たる海洋で、全く目印がない海の民や、木々に覆われて方向がわからなくなる山の民にとって、「道しるべ」となる有難い星であり、スターナビゲーターだった。その北極星への信仰(妙見信仰)が、都市に入ったさいに、この世で道を誤った迷い人たちを導く星であり、神仏であるという信仰へ変容したのではないだろうか。

この「道を誤った人たち」というのが、すなわち罪人や流れ者、無縁の者たちで、それがゆえに千日前に妙見さんが安置されたのだろうと筆者は推測している。つまり七墓巡りの「七」というのは、北極星を取り巻く「北斗七星」を意味しているのではないだろうか?

なぜ、無縁仏を供養する祭礼の「大阪七墓巡り」で「七」という数字が選ばれたのか?・・・この「七」という数字にも、当時の人々の、何かしらの信仰や霊性の働き、宗教心が込められていると考えられる。実際のところは不明であるが、筆者の一つの直観として記しておく。

5 東日本大震災から生まれた「死生観光プロジェクト」
さて、以上は江戸時代に行われていた大阪七墓巡りの簡単な紹介であったが、筆者は普段は観光やまちづくりのプロデューサーとして活動している。仕事柄、大阪のまちを案内することが多く、その中で大阪七墓巡りの風習を知ったのだが、その後、個人的な興味で七墓の場所を訪ね歩いたりしていた。

それを自分一人だけではなくて、いろんな参加者を募って歩いてみようと考えて、2011年の春に「大阪七墓巡り復活プロジェクト」という団体を立ち上げ、同年の盆に、有志で七墓巡りの跡地を辿るツアーを行った。なぜそんなプロジェクトを立ち上げたのか?とよく聞かれるが、これは実は2011年3月11日の東日本大震災による福島原発事故の衝撃と、その個人的な内省が非常に大きい。

いま、日本全国各地に原発が建っているが、それらは地元住民の賛同の下に建てられている。もちろん地元住民全員が賛同しているわけではなくて、反対の住民もいるだろうが、最終的には「多数決」という選挙の結果で誘致が決定したところが大半だろう。

しかし、筆者は「生きている住民の賛否だけで原発誘致を決めていいものなのだろうか?」という疑問を頂いたのだ。なぜならば、仮に原発に重大な事故が起こると(その懸念が現実のものとなったのが福島原発事故であったのだが)、その被害は非常に甚大で、時と場合によっては数十年、数百年に渡って地域社会に悪影響を及ぼしかねない。現在、生きている住民だけで原発誘致を決めるには、あまりにも責任が重すぎるのではないか?

そもそも、まちには我々が存在する以前に、そこに根差して生きてきた「過去の先人たち」がいる。さらに、我々の後には、いまだに生まれてはいないが、そのまちで生きていくであろう「未来の後人たち」がいる。我々は、ただ、その「先人」と「後人」の両者のあいだに、つかのま存在しているだけの、まちの「仮の住人」に過ぎない。そのことを忘れて、なんでもかんでも一過性の選挙で決めてしまうのは非常に危険なことではないかと考えたのだ。

これはなにも筆者だけの特異な考えではなくて、例えばイギリスの作家G・K・チェスタトン(1874~1936)は「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない」(『正統とは何か?』)と「生者だけの民主主義」を厳しく諌めている。

そして、筆者は、このチェスタトン曰くの「死者の民主主義」を考える機会として、かつての大阪の町衆の風習であり、失われた「伝統」である大阪七墓巡りが最適ではないか…と考えたわけである。無縁仏を供養するという大阪七墓巡りを追体験することで「大阪の先人たちが、どのように死者と向き合ってきたか?」ということがわかるし、それがわかれば「現代の我々も、どう死者と向き合えばいいのか?」ということのヒントや指針、答えになるのではないか?

こうしたことから筆者は大阪七墓巡り復活プロジェクトは、大阪の先人たちと出逢うツアーであり、「死者と生者が出逢う観光」であることから、「死生観光プロジェクト」と名付けている。

6 大阪七墓巡り復活プロジェクトの意義
大阪七墓巡りプロジェクトを2011年から始めて、以後、毎年、盆の時期に実施していて、今年の2020年で9回目を迎えた。参加者は初年度の2011年は30名ほどであったが、そこから年々と増えていき、2018年には、ついに100名を超すほどになった。2019年は台風の影響で急遽、順延したので参加者が減ったが、それでも70名近い参加があった。

江戸時代の大阪七墓巡りの参加者がどのような人たちであったのか?は不明だが、筆者が主催している大阪七墓巡り復活プロジェクトでは、どのような人が参加しているのかは当然だが、よくわかっている。興味深いのは、まず参加者が大阪のみならず、遠くは九州や東北、海外からの参加者など非常にバラエティに富んでいる。また20代~40代が多いことも特徴で、さらにいうと独身で子供がいない「おひとりさま」の参加者が非常に多い。

これは当初、まったく想定していなかった現象であったが、そういったおひとりさまの参加者は今後もますます増えるだろうと予想している。というのも、1990年の国勢調査では50歳男性の5.6%、50歳女性の4.3%が一度も結婚歴がなかったが、それが2015年の国勢調査では男性23.4%、女性14.1%と急増している。俗にいう「生涯未婚率」だが、これは今後も増加すると予想されている。

さらに、現代日本社会は、いよいよ高齢化社会から多死社会に移行しつつある。厚生労働省の『平成29年(2017)人口動態統計の年間推計』によると、2017年の死亡者数は約134万4000人だが、これが2030年頃には年間死者数は150万人を超えて、それが約30年間ほど続くという推計データもある(国立社会保障・人口問題研究所『日本の将来推計人口(2017年)』)。

この中には、もちろん生涯未婚の死者も多く、無縁仏になってしまう人も多いだろう。そういった社会状況も大阪七墓巡り復活プロジェクトの不思議な人気を後押ししている。実際に、ある40代後半の独身女性の七墓巡りの参加者から「無縁者の自分が、いま生きているうちに、過去の無縁仏のために供養の巡礼をする。そうすれば自分が死んで無縁仏になっても、未来の無縁者の誰かが自分のことを思って巡ってくれるかもしれない。過去と現在と未来の無縁者たちが七墓巡りによって時を超えて繋がっていく気がする」と語られたこともあった。

まさに大阪七墓巡りをすることで、「無縁という繋がり」を認識することによって、死者(過去)と生者(現在)と未来者が出逢うような瞬間(それは幻や錯覚のようなものかも知れないが)が、彼女の中に訪れたということではないだろうか。

現代社会は、血縁、地縁、社縁などが崩壊して「無縁化社会」と呼ばれるが、こうした社会状況の中であるからでこそ、「無縁」ということを大前提に繋がりあえる仕組みが必要なのではないか?と筆者は考えている。大阪七墓巡り復活プロジェクトはそのための試みであり、社会実験ともいえるだろう。

さて、今年の2020年の盆も大阪七墓巡り復活プロジェクトを行ったが、しかしコロナの影響があり、感染症防止のために筆者が一人で深夜に誰もいない七墓を巡り、「大阪七墓巡り復活プロジェクト」のfacebookページで、ライブ配信する…という全く新しい形での七墓巡りとなった。

筆者は宗教者ではないが、それぞれの墓地(跡)で拙い般若心経を唱え、その様子をオンラインで参加者(視聴者)が見て、一緒に合掌をしてもらった。江戸時代に流行った「代参」の現代版のようなものといえるだろう。全部で14動画あるが、それらの再生回数は計3000回を超えて、いまだに増え続けている。これは誰でも視聴可能なので、もしご興味がある方は、「大阪七墓巡り復活プロジェクト」のfacebookページの「動画」を参照してほしい。

オンラインで大阪七墓巡りをやることで、とくに新しい知見が広まったということもないが、たった一人で七墓を巡るのは、個人的には充実の時間となった。普段の七墓巡りでは、100名近い人々を先導するので、どうしても参加者への気配りなどで、意識を奪われる。死者と真摯に向き合おうとするならば、やはり一人でお参りするのが集中できるし、精神的な心構えができる。

また、七墓巡りで重要なのは、「墓」(点、ポイント)ではなくて、その「巡り」(ライン、線)にある。墓と墓のあいだを、一人で歩いていくうちに、さまざまなことを振り返る時間となる。筆者は毎年、七墓巡りをやっているので、「去年の七墓巡りから1年たって、自分はどうだったか?」と自分の来し方を考えたりする。また、今年はコロナ禍中ということもあり、「来年の七墓巡りは一体、どうなるだろうか?自分は生きて、七墓を巡っているだろうか?」と自分の将来や行く末などもじっくりと考える時間も多かったように思う。

普段の日常の暮らしの中では、慌ただしい仕事や雑事に追われてしまうので、そんなことを振り返る時間はあまりない。しかし、自分の生き方、死に方を考えるのには、墓を巡るに限るのではないだろうか。

このコラムは『月刊石材』の読者が読むものだから、最後に、石材関係者のみなさんにお伝えしておくと、墓を作るという仕事は、死者のためだけではなくて、生者のためでもあるのだろう。筆者は、墓を巡ることで、死者と向き合うことで、自分の死生観を点検する時間を持つことができている。それは非常に貴重な機会で、ありがたいことだと年々、感じている。

【陸奥 賢(むつ さとし) プロフィール】
観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者。1978年大阪・住吉生まれ、堺育ち。最終学歴は中卒。15歳から30歳まではフリーター、ライター、放送作家、生活総合情報サイトAll About(オールアバウト)の大阪ガイドなど70近い職種を経験。2007年に地元・堺を舞台にしたコミュニティ・ツーリズム企画で地域活性化ビジネスプラン「SAKAI賞」を受賞(主催・堺商工会議所)。2008年から2013年までは大阪市のまち歩きプロジェクト「大阪あそ歩」(2012年、観光庁長官表彰受賞)のプロデューサーを務める。2011年からは観光やまちづくり、メディアの境界を逍遙しながら「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「直観讀みブックマーカー」「当事者研究スゴロク」「演劇シチュエーションカード 劇札」「歌垣風呂」(京都文化ベンチャーコンペティション・とらや賞受賞)「仏笑い」「北船場将棋」「死生観光トランプ」などの一連のコモンズ・デザイン・プロジェクトを手掛けている。とくに「まわしよみ新聞」はアクティブ・ラーニングのツールとして平成29年度高等学校国語科教科書・三省堂『明解 国語総合』に採用され、2017年11月には「わが国最高の教育賞」と呼ばれる「読売教育賞」の最優秀賞を受賞した。大阪まち歩き大学学長。著書に『まわしよみ新聞をつくろう』(創元社)。

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