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大阪には地方新聞がない(発行部数が少ない)問題。

2022 年 10 月 13 日

大阪には地方新聞がない(発行部数が少ない)問題。

戦前、大阪から誕生した新聞(朝日、毎日、産経)はみな東京に拠点を移して「中央新聞(中央紙)」になってしまった。

一応、地方新聞として位置づけられている新聞として大阪日日新聞があるが、日日さんは確かに頑張ってはりますが(僕の友人にも日日の記者さんがいます)発行部数は1万部もなく、本社は鳥取の新日本海新聞だったりする。

だから大阪日日新聞を読んでいると、やたらと鳥取、山陰の企業の広告などが多くて、それはそれで僕などは興味深いが、大阪の地方新聞の力不足を感じて悲哀でもある。

地方にいくと地方新聞がローカルなネタをちゃんと取材、発信して新規のコミュニティ・ビジネスやその担い手、若手、新人のインキュベーターのような役割を果たしている。地方新聞に載ると、それなりに地方に顔が知られて支援者、応援者がでてきたりする。ネットワークとして機能している。

なによりも地方政治に物申す存在として地方新聞の影響力は無視できない。例えば大阪の隣の京都には京都新聞35万部、神戸には神戸新聞41万部という大メディアがあり、それが議員や議会の不正や疑惑を追及する。地方新聞が見ているから緊張感もある。

大阪は地方新聞がないわりに映像メディア…テレビ、在阪メディアの影響力が非常に大きい。大きいが映像メディアというのは基本的に「煽情的なメディア」であり、ロゴス(論理)よりもパトス(情緒)に最も働きかけて訴えかけてくる。

新聞は「書き言葉(エクリチュール)」であるがゆえに、そこには一貫とした論理性が求められる。テレビ(映像メディア)は「話し言葉(パロール)」であるがゆえに、その話者のパーソナリティ、キャラクター、声量、声質、声色、タイミング、雰囲気で、いくらでも番組を制することができる。

テレビ(映像メディア)という煽情的メディアでは話の論理性や整合性などは二の次、三の次になってしまい、だから物申すテレビ・タレントの多くは、いってることがメチャクチャではあるが、場を制する技術、テクニックは非常に長けている。

新聞はアナログだから紙として残るし、ストックのメディアで、貯まっていくし、検証もできる。じっくりと考える素材となる。テレビはフローなメディアで、流れていくもので、じっくり物事を考えるには適していません。「いいっぱなし」で終わってしまう。

また大阪のテレビ局は日本のテレビ局の中でも一種、特殊な存在で「ローカル局(地方局)」でもないし「キー局(東京)」でもなくて「準キー局(大阪)」と呼ばれている。

要するに資本関係は東京(キー局)に牛耳られているが、大阪独自の番組を作る予算や実力がそれなりに認められている。だから大阪発信の大阪テレビ番組というのが地方、ローカルに比べると格段に多い(それもどんどんと予算を削られて厳しくなっていますが…)

大阪の地方政治が、どうも「非論理的」で「煽情的」であるのは大阪に有力な地方新聞がないこと。それでいて在阪メディアは多くて、やたらとお茶の間に浸透している…という二重のメディア構造の問題と、その影響が大きい。

大阪政治の特殊性というか、維新一強が東京や地方の方には疑問、不思議、謎に思われるらしいが、それもごもっともで東京や地方にいては、この「地方新聞の無力+在阪メディアの影響力」という大阪特有のメディア構造がよくわからない。

メディアこそが民主主義の要で、そこが歪んでいると、自然と政治も歪むということです。

ちなみに、この大阪特有のメディア構造が問題だなと僕が気づいたのは2010年頃、大阪あそ歩プロデューサー時代のことで。当時、大阪日日新聞さんで毎週、あそ歩の150コースのまち歩きマップを紹介する連載を持ち、その時に日日さんに発行部数を聞いて、そのあまりの発行部数の少なさに愕然としたんですな。

それで自分たちで、大阪発信の、新しい地方新聞、メディアを作ることができないか?と考えて陸奥賢が生み出したメディア遊びがまわしよみ新聞だったりします。

まわしよみ新聞が生まれる背景には、こういう問題意識もありました。ポッと出たように見えて(ポッと出たんですがw)、そこに至るまでには、いろんな問題意識、狙い、思考が錯綜して、まわしよみ新聞というのは生まれてます。


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