桃山病院の殉教者慰霊碑
天王寺区細工谷にあるのが、桃山病院の殉教者慰霊碑。桃山病院(桃山避病院)は明治20年に建てられた大阪初の伝染病専用の病院だった。
江戸時代は鎖国体制で日本人はなかなか外国人と触れ合うこともなかったが、明治維新を迎えて開国すると外国人が一気に日本国内で増加した。当時の日本人にはまったく外来の細菌、ウィルスへの免疫がない。ヨーロッパ、アメリカで流行していたコレラ、ペスト、天然痘などが猛威を震い、明治・大正・昭和初期の日本国民、大阪市民の生命を脅かした。
特に衝撃であったのがペストで、大阪の第一次流行(1899~1900)では161名の患者のうち死者146名(致死率90.7%)、第二次流行(1905~1910)では958名の患者で死者860名(致死率89.8%)という大惨事となった。
致死率90パーセント超えとは恐るべき死病であるが、あまりにも致死率が高いので、皮肉なことだが、それほど患者数は増えなかった。広まる前に患者が死んでしまう。いまアフリカのエボラなどが致死率90パーセント超えらしいが、なかなか世界的に広まらないのはそういう理由があるとか。いや、しかし、それもこの地球大移動、大交流の時代にはわからない。
伝染病の恐怖というのはコロナでイヤというほど体験した。都市機能、社会インフラがストップしてしまう。こんなのは二度とごめんやと思うが、地球温暖化や環境破壊などで自然界の生物と人類の接触がどんどんと増えていく。未知なるウィルスが人間という触媒によって、どう進化するかわからない。
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツはいま伝染病関連の研究、防疫などを事業にしているらしいが、今後の世界は10年に1回の割合でコロナ級のパンデミックに襲われる可能性があると予測している。10年に1回てあーた、信貴山の秘仏・毘沙門天のご開帳(12年に1回)より早いがな。善光寺のご開帳(7年に1回)より遅いけどって何をいっているのかよくわからなくなってきた。とりあえずパンデミックは勘弁して欲しいが、起こった時はしゃあない。そん時はまた陸奥賢はひとりでオンライン薬師巡礼をします。
細工谷のまち歩きでコロナ前は、この石碑についてもあんまり触れることはなかったが、コロナ以降は必ず立ち寄るようにしている。大衆が右往左往するのが都市。人間が行き交うということは、それだけ伝染病のリスクは高まる。都市の大敵とは伝染病であった。リスクマネジメントの意味も込めてお参りしている。
石碑は昭和12年に建立された。裏に碑文が書かれているが「伝染病の現場は戦場そのもので病院関係者は軍人のようなものである」と、なかなか勇ましい。「殉教」というのが正義として叫ばれていた時代精神であろう。