『ドリー・ベルを覚えているかい?』。エミール・クストリッツァ監督の幻のデビュー作。40年前の作品らしいが、日本では初公開ということで、これも興味深くて観に行きました。
クストリッツァは、このデビュー作でいきなりヴェネチア国際映画祭新人賞を受賞している。天才すぎるやろ…。まあ、その前にテレビ業界にいてテレビ作品の監督、演出などをしていたようですが。
クストリッツァはユーゴスラビア(現在のボスニア・ヘルチェゴビア)の首都サラエヴォ出身(かなりええとこのボンで特権階級出身らしい)だが、ユーゴスラビアは複雑怪奇すぎる歴史を持つ。なんせキャッチコピー(?)が「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」であった。
第二次世界大戦のあとユーゴスラビアはソ連の後押し(のちにソ連からも距離を置くが)を受けて社会主義連邦共和国となる。第二次世界大戦の反ファシストの英雄チトー元帥(最高指導者、終身大統領、首相)による独裁体制が長く続いたが、1980年にチトーが死ぬと民族主義が台頭し、国家体制は混沌、混迷を極めていく。
十日間戦争、スロベニア独立戦争、クロアチア独立戦争、ボスニア紛争、コソボ紛争、プレシェヴォ渓谷危機、マネドニア紛争と1991年から2001年までユーゴスラビア紛争の時代に突入した。民族浄化、大量虐殺、ジェノサイドが相次ぎ、NATOの空爆まであって、もう何が何やらの阿鼻叫喚地獄。僕が物心ついた時からユーゴスラビアは内戦しかしていない恐ろしい国というイメージであった。
結局、ユーゴスラビアは6つの構成共和国スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアがそれぞれ独立して地上から消滅してしまった。そしていまだに現在進行形で各国の紛争、小競り合いは続いている。
クストリッツァは自分の故郷は「ユーゴスラビア」(ボスニア・ヘルチェゴビアではなく)と明言する人間であるし、ロシア・ウクライナ戦争でもロシア支持、プーチン支持を表明している。そのことでクストリッツァ・ファンの中には「幻滅した」というようなことを宣う方もいるようだがクストリッツァの半生を鑑みれば非情かつ峻烈なる政治的リアリズムに立脚した発言だともいえる。極東アジアの島国の日本と世界の火薬庫・バルカン半島の旧ユーゴスラビアでは地政学的状況があまりにも違いすぎる。迂闊なことはいえない。
映画は1981年の作品。チトー体制が終了(1980)し、ユーゴスラビアは西側の自由市場経済を取り入れようと模索していた時代。映画でも共産主義思想のオッサンが「これからは各村にひとつのロックバンドを」と熱弁して、それが村人たちに支持され、主人公の少年ディーノたちがバンドの練習を始めるという頓珍漢ぶりに笑ってしまう。ユーゴスラビアが変わりつつあろうとした時代状況がなんとなく窺える。歴史的には、この流れの果てに1984年のサラエヴォ冬季オリンピック(東側諸国、社会主義国家のオリンピック開催はモスクワに次いで二回目の偉業であった)があった。
なにはともあれ、民族浄化の暗黒時代(傑作『アンダーグラウンド』はまさしくその真っ最中に作られた映画であるが)の前に、こんな青春物語の映画が描かれていたのだなあとクストリッツァ(ユーゴスラビア人)の激動の人生を俯瞰し、感慨深しいものがあった。名作。みるべし!
ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。主演の役所広司氏は円熟の名演技でカンヌ男優賞を受賞した。
東京の公衆トイレのクリーニングスタッフの日常であるが、仕事に対する姿勢が禅僧的というか究道的というか精神修養的というか、こんなスタッフ、現実世界にほんまにおるんやろか?と思うほどストイックで、まずそこに強烈な違和感を覚える。
また休みの日には古本屋に通って幸田文やウィリアム・フォークナーなどを読み、さらにアニマルズやキンクス、オーティス・レディング、ルー・リードなどロック黄金時代の名盤のカセットテープ(!?)を多数、保持していたりする。
随分と読書人、教養人、趣味人であるが基本、社交的な人間ではなく、また生家(資本家の父親との関係性?)と何かしらの確執があるようだが、その辺の描写は匂わせ程度なので、いまいち詳細はよくわからない。
そもそもなんでトイレのクリーニングスタッフを映画の主人公に?と疑問に思って調べてみたら、これは東京オリパラのためのプロモーション・フィルムなんですな。
僕は全く知らなかったが東京オリパラのさいに「THE TOKYO TOILET(ザ トウキョウ トイレット)」プロジェクトなるものがあり、渋谷区にある17の公衆トイレを16人の建築家やクリエイターの手でリデザインしたという。映画はこのトイレを紹介したいということからスタートしたもので、それでトイレのクリーニングスタッフが映画の主人公に設定されたらしい。
映画を製作した柳井康治氏はユニクロの柳井正会長の次男。また映画の脚本家でプロデューサーでもある高崎卓馬氏は電通の人間でオリ・パラ組織委員会で企画財務を担当し、エンブレム盗用事件の関連人物でもある。
外国人が日本に来るとトイレのウォシュレット機能の性能、技術に驚くらしいが、このやたらとデザイン性の高い公衆トイレは、そういう外国人にウケる日本のトイレ事情の最先端を「お・も・て・な・し」文化として見せつける!というような意図があったらしい。
東京オリパラは招待の段階から賄賂工作疑惑があり、運営中には談合やら癒着やらが横行してスポンサー企業、大手広告代理店(電通含む)、大手関連企業が「五輪汚職事件」として起訴されたり、有罪判決を食らっている。「復興五輪」とか「アスリート・ファースト」といった美辞麗句を並べつつ、実態は資本家の、資本家による、資本家のための公金横領、中抜き、カネまみれの実に情けない五輪であった。
こういう背景を鑑みると、この映画で描かれるトイレのクリーニングスタッフのリアルでない「清貧的」な仕事ぶりや生き方が、いかにも虚飾的で、嘘偽りで、欺瞞に満ちたものか?と思わざるを得ない。誰か実在の人物のモデルがいるわけでもない。お金持ちの人たちが考える想像上の、理想のトイレ・クリーニングスタッフが描かれている。この非人間的で、記号的で、血肉の通わない、頭でっかちなフィクション性が、ある意味で東京的といえるのかもしれない。
しかし個人的に興味深かったのは、主人公の生活エリアがどうも墨田区、台東区エリアらしいところ。主人公の行きつけの風呂屋として電気湯が登場したり(この電気湯では顔半分、口まで湯船につけたりして、ちょっとダメ人間らしさを醸し出している)、隅田川・桜橋、浅草の地下商店街の居酒屋「福ちゃん」などが何度も登場してくる。
渋谷区のデザイン性の高い虚構的な公衆トイレに対して、主人公が住む墨田区・台東区の下町の光景や生活感は実にリアルで、安心を覚えたりもする。役所広司氏の演技が生きているのは、これらの墨田区・台東区のシーンで、自分の見知った光景、風景に出くわして、ちょっと嬉しくなった。去年、東京七墓巡り復活プロジェクトで歩いたエリアであったし。
墨田区・台東区エリアなので当然、スカイツリーも其処彼処で登場するが正直、スカイツリーは食傷気味ですな。高すぎて、見えすぎるというのは、なんとも心象にはなりません。タワーというのは小さい方が愛嬌があって品格があります。スカイツリーより東京タワー、東京タワーより船堀タワーの方が断然、良いw 心象になります。「ふるさと」になります。