■大蓮寺ものがたり~第一章 大蓮寺の伝説~
【大蓮寺ものがたり】大蓮寺の秋田光彦前住職から「大蓮寺の歴史、伝説、伝承などをまとめた小冊子を作ってほしい」というご依頼をうけてコツコツと文献リサーチを積み重ね、纏めたのがこちらのPDFです。
https://drive.google.com/file/d/1aRYSSpLGsRG-fLTMjTOWXRyLF2oRc8-Z
■第一章 大蓮寺の伝説(PDF)
第一章 大蓮寺の伝説
■行基が東大寺・大仏造営の勧進で小庵を建てる
浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺の縁起については明治維新の廃仏毀釈や明治45年(1912)のミナミの大火、昭和20年(1945)の大阪大空襲などで関係資料が失われ、残念ながら詳細はよくわかっていません。しかし今から約100年前に書かれた『大阪府全志』(著者:井上正雄/大正11年・1922年発行)によると「聖武天皇の天平15年(743)閏3月、僧正・行基が諸国を行脚していた際に小庵を結んだ」ことが大蓮寺の始まりであると記述されています。
上記は『大阪府全志』の著者・井上氏が当時の大蓮寺第26世住職の秋田貫融師に取材して書いた記事です。あくまで「寺伝」であって実際のことはよくわかりません。わかりませんが、少なくとも貫融師は「大蓮寺は行基ゆかりの寺院で大阪有数の古刹である」という矜持を持っていたことでしょう。
ちなみに天平15年(743)に行基が諸国行脚をしたのは歴史的事実です。聖武天皇から奈良・東大寺大仏造営の詔が発布されたさいに行基は勧進役に起用され、それで諸国を巡っていました。行基やその弟子たちが浪華の地を訪れたことは確かにあったろうと思われます。
■菅原道真が大宰府左遷の折に訪ねる
続いて『大阪府全志』には延喜元年(901)、菅原道真が大宰府左遷のさいに行基ゆかりの小庵に立ち寄って名残を惜しみ、祈願を籠めたと書かれています。
なぜ菅原道真が行基ゆかりの小庵を訪れるのか?と疑問に思いますが、菅原道真の先祖は土師氏(野見宿禰→土師氏→菅原氏)で、その土師氏集団を率いていたのが行基でした。行基は庶民に仏教を広めるために溜池や架橋など社会福祉事業に邁進したことはよく知られていますが、そうしたさいの土木工事を担った豪族が土師氏でした。
また菅原道真は藤原氏の讒言によって失脚し、明日をも知れぬ左遷の身となりましたが、朝廷に疎まれながらも民衆を教化しようと諸国を放浪したのが行基です。行基の小庵に足を運び、どこか自分の境遇と重ね合わせて気持ちを鼓舞するようなところがあったのかも知れません。
■足利将軍家の祈願所となる
行基ゆかり、菅原道真ゆかりの小庵はその後、鎌倉・南北朝・室町と武士勢力による戦乱の時代に突入すると、全く見る影もないほどに荒廃したといいます。それを嘆き悲しみ、復興を志したのが室町幕府12代将軍・足利義晴(1511~1550)の三男・晴誉上人でした。
この晴誉上人が一体、どのような人物であったのか?詳細はわかりません。寛政年間(1789~1801)に江戸幕府が編修した大名や旗本の系図集『寛政重修諸家譜』にはその名前はないようです。
足利義晴の子には足利義輝(13代将軍)、覚慶(のちに還俗して足利義昭・15代将軍となります)、周暠などが記録されていますが、長子の義輝以外は皆、出家しています。足利将軍家は家督相続者以外の子は仏門に入ることになっていました。晴誉上人もそのような足利家の伝統的な慣例に従って仏門に入ったのだろうと思われます。
晴誉上人は自ら諸国を巡化して浄財を集め、また家祖・足利尊氏の追善供養も込めて天文19年(1550)3月5日、一大伽藍を創建しました。その境内は頗る広く東西5町、南北4町に及び、塔中8ヶ寺、直末175ヶ寺を有し、堂頭は雲に聳え、足利家の祈願所として近畿の名刹となったといいます。しかし戦国時代の動乱に巻き込まれ、兵火にかかって烏有に帰しました。
■應蓮社顕誉魯道泰純による中興
再度、寺院を復興したのが應蓮社顕誉魯道泰純(?~1632)です。『浄土宗全書』によると顕誉上人は当初、大阪・宝泉寺の願誉上人の弟子でした。その後、下総国(現・千葉市)生実(おゆみ)の大巌寺二世の虎角上人(1539~1593)の下で数年間、修学しました。その学識の深さは他の学徒がひれ伏すほどであったといいます。その後、帰国し、堺・宗泉寺に入りました。この宗泉寺は『堺市史』によると訓蓮社願誉不捨順宏の開基とありますので、最初の師匠である願誉上人が堺に開基した寺を継いだのかも知れません。
その後、いよいよ文禄3年(1594)に大阪・備後町4丁目(現在の本願寺津村別院・北御堂の北側あたり)に足利家祈願所の大蓮寺を再興します。ところが、この寺の敷地が大蓮寺の寺格に対して小さすぎるということで、顕誉上人はなんと駿府まで赴き、徳川家康に直訴しました。
じつは徳川家は代々、熱心な浄土宗の信者でした。また家康が桶狭間の戦いで敗北したさいに逃げ込んだのが浄土宗寺院の大樹寺で、迫りくる織田勢を寺の閂(かんぬき)で蹴散らしたのが七十人力の怪力僧・祖洞上人でした。まさに家康の命の恩人ですが、この祖洞上人の曽孫弟子(祖洞→貞把→虎角→顕誉)が顕誉上人となります。
家康は顕誉上人の直訴に対して感じ入るところがあったのか、書付を小出播磨守に送り、その結果、顕誉上人は慶長6年(1601)に鞴町(天満?)にて大屋敷を給わったといいます。以上は『浄土宗全書』『大阪府全志』『徳川実記』に記載されている大蓮寺の変遷です。これに対して『摂陽奇観』(浜松歌国著、天保 4年・1833年刊行)では、最初は備後町ではなくて三津寺のあたりに寺院が復興され、その後、家康の命令で西横堀あたりに移されたとあります。場所に相違はありますが、家康の命令によって大蓮寺が移転したということは間違いないようです。
また大阪の夏の陣後の元和年間(1615~1623)に現在の高津の地に移転したと『難波丸綱目』に記載されています。おそらく大阪夏の陣で大蓮寺もなにかしらの戦災を受け、戦後復興の一環で下寺町の整備が成され、幕府の命令で大蓮寺は現在地に移転したと推測できます。
その後、顕誉上人は京・浄福寺の法雲上人が知恩院第30世に昇転するさいに「徳行純固」たる僧侶として抜擢され、補佐として浄福寺の第4世住職となりました。この法雲上人は元は今川氏で、家康が三河・法蔵寺にいた頃からの友人で、度々、家康に召されて思い出話に花を咲かせたといいます。従来、知恩院住持の進退は青蓮院門主の令旨によってなされていましたが、法雲上人以後は、すべて将軍の台命によって沙汰されることとなり、これは幕末まで継続されました。いわば江戸幕府による知恩院支配のような側面もあったのですが、そこに顕誉上人も携わっていたことになります。
ちなみに大蓮寺の塔頭寺院・應典院は大蓮寺3世住職・誓誉在慶の隠棲所として建てられたものですが、それは『浄土宗寺院名鑑』では慶長10年(1605)、『大阪府全志』などでは慶長19年(1614)のことと記載されています。夏の陣前に建立されたことになりますので、應典院も夏の陣後に大蓮寺と共に高津の現在地に移ったということになります。
■家康の身代わりになった大蓮寺の僧侶?
徳川家康と大蓮寺関連の伝説には以下のような面白い話も残されています。大阪夏の陣のさいに真田幸村に追い詰められた家康が草むらの中に身を隠しました。幸村は火縄銃で草むらをかき分けて探しましたが、そのとき草むらの陰にちらちら動くものがありました。幸村は家康だと思い込んで撃ち込んでみると家康ではなくて一人の僧侶でした。僧侶は絶命しましたが、そのあいだに家康は無事に逃げ出すことができました。
戦が終わった後に家康が身代わりになった僧侶は一体だれであったのか?と調べると大蓮寺の僧侶ということがわかりました。それで家康は僧侶の供養のために大蓮寺に釣鐘を奉納したというものです。その鐘を作るさいに用いられた水が二つ井戸であったといいます。
昭和2年(1927)に出た大阪趣味研究会による『大阪叢書』「鐘を吹いた二つ井戸」という記事で、もちろん史実だとは思えませんが、今の我々が想像する以上に、かつての大阪の人々には家康、江戸幕府と大蓮寺はさまざまな因縁があり、「徳川方のお寺」と目されていたのかも知れません。
■大蓮寺の鐘は大阪市中最大の釣鐘だった
話が大蓮寺の釣鐘伝説に及んだので、釣鐘の話にも触れておきます。『大阪金石史』(大正11年・1922年刊行)によると江戸時代、大阪市中最大の釣鐘は、この大蓮寺の釣鐘だったといいます。総高6尺8寸7分(約208センチ)で寛永19年(1642)に丸屋善太郎・丸屋五郎八(兄弟?)が父(名前不詳)の菩提のために寄進したものといいます。鐘には「摂州大坂如意山大蓮寺第二世典譽信阿」上人の名前と冶鋳大工として「摂州大坂住人藤原朝臣高瀬吉左衛門尉正次」、丸屋一族58名の法名が刻まれていました。
江戸時代には大蓮寺といえば大釣鐘の寺と連想するほど有名であったようで、大蓮寺に通じる東西道(現在の大阪市立高津小学校の北側)は「釣鐘筋」(または鐘筋)と呼称されました。千日前や黒門市場方面から大蓮寺に至る参詣道として認識されていたようです。大阪ミナミ界隈の町衆は大蓮寺の釣鐘の音と同時に寝起きしたということでしょう。
のちに享保18年(1733)に高津新地ができたさいは、高津新地は幕府から茶屋32株、湯屋2株が許可され、その一角として釣鐘筋も遊所になりました。この遊所は明治時代に廃絶しますが、大正13年(1924)の『大阪独案内』には「十の日」には「高津釣鐘筋」に夜店が出たという記録などもあります。毎月10日、20日、30日ともなると釣鐘筋には夜店が出て、大蓮寺の門前市のような光景が展開していたようです。
この大釣鐘は残念ながら昭和17年(1942)に太平洋戦争の金属供出によって失われてしまいました。