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画像は「一心寺縁起絵巻」より。日想観を行う法然上人と後白河法皇の図。

2024 年 6 月 6 日

「文治元(1185)年春、当時の四天王寺別当慈鎮和尚の請によりこの地を訪れた宗祖法然上人が、四天王寺西門近くに結んだ四間四面の草庵・荒陵の新別所に止住され、日想観を修された事に始まる。平安期以降日想観の聖地とされるこの地で、法然上人は四天王寺参拝に訪れた後白河法皇と共に日想観を修された」

以上は「法然上人二十五霊場」公式サイトから抜粋した一心寺の開創に関する説明。

https://www.25reijo.jp/reijo/7.php

興味深いのは法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのが1185年であること。この年は実は「壇ノ浦の戦い」が行われた年であったりする。

壇ノ浦の戦いは正確には元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に起こった歴史的事件で、この戦いの結果、平家一門は滅亡し、安徳天皇も数え歳8歳の若さで入水して落命してしまった。

この安徳天皇の母は平清盛の娘・徳子であるが、父は高倉天皇であり、つまり安徳天皇は後白河法皇の孫(もちろん清盛の孫でもある)となる。後白河法皇は愛する孫を失った傷心の年に京都から四天王寺にやってきて日想観を行ったことになる。

いまは埋立などで海岸線は遥か彼方に西進してしまったが、中世には四天王寺の西を望めば、そこには難波津(大阪湾)が眼前に広がっていたという。この難波津の西は瀬戸内海に繋がり、瀬戸内海をさらに西に進んでいけば、やがて関門海峡に至るが、そこがつまり壇ノ浦である。

一心寺の縁起を調べても法然上人と後白河法皇が日想観を行ったのは「1185年の春」とあり、曖昧な記述なので壇ノ浦の戦い(4月25日)の前なのか?後なのか?はいまいち判明しない。判明しないが、この世の栄華を誇った平家一門が源氏に追い詰められ、滅んでいくという歴史的な瞬間であったことは間違いない。

難波津に沈んでいく夕陽を眺めながら日想観を修した後白河法皇と法然上人。南無阿弥陀仏を唱えて合掌しながら、その胸中に去来したものは一体、なにであったか。

画像は「一心寺縁起絵巻」より。日想観を行う法然上人と後白河法皇の図。


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