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2024 年 10 月 12 日 のアーカイブ

田部君子をはじめて知ったとき

2024 年 10 月 12 日 Comments off

【福島県】田部君子フェスティバルのトークイベント「田部君子をはじめて知ったとき」。いわき・小名浜出身で、いまは東京で活躍なさっている歌人の井上法子さんをお招きして、いろいろと君子の短歌についてお話しして頂きました。

君子の短歌の特徴のひとつとして場所や状況を特定するような固有名詞などは実はあまりなく、それよりも「含みのある言葉」が使われていて、それが読む人それぞれの多種多様多彩な解釈を産む余地となり、だから時間や空間(時空!)を飛び越えて君子の短歌に共感、共鳴、共振してしまうのでは?という井上さんの解説に納得でした。

含みがある言葉を使いながら、それでいて巧みに本歌取りをしていたり、言葉の音律で面白おかしく遊んでいたり、現実と虚構が交錯するような幻視的な言葉を組み合わせていたりと、君子の歌人としての天才性、その妙味や奥深さにも気づかされました。とんでもない歌人です。ほんまに。生まれた場所や時代が違っていたら、どれほどその才能が開花していただろうか…と思わずにはいられない。もしかしたら草野心平級の歌人になっていたかも知れない。そうなっていたら、いわきの文学世界ももっともっと広がっていたことでしょう。あまりに、あまりにも早逝が惜しまれる。

また個人的に、なるほど!と膝を打ったのが井上さんが「私がこの短歌を作りたかった」と君子の短歌を評したこと。これはなかなか凄い言葉で。君子との邂逅の衝撃や羨望や賞賛がありつつ、しかし井上さんの歌人としての在り方や矜持、美学のようなものも感じ取れて、いやあ、痺れましたw

いわき時空散走のリサーチで田部君子という先人を知れたのは嬉しいことでしたが、そのことがキッカケで井上法子さんという現代のいわきの歌人(井上さんはそういわれることに戸惑いがあるかもしれないですが…)と出会えたことも二重の喜びでした。また何か時空散走と短歌ワークショップのコラボなど企画したいなあと思っています。井上さん、よろしくお願いしますw

トークイベントの会場には、井上さんの高校時代の恩師や、田部君子を最初に発掘してくれた勿来関文学歴史館のみなさん、時空散走メンバーも大勢きてくれて、いろんな出会いがあったようで良い場になったように思います。本当にありがとうございました!( ´ ▽ ` )

※画像はトークイベント後の打ち上げで訪れた「漁夫」。秋刀魚と鰹の刺身。常磐もの、美味すぎる…。参りました。「漁夫」も大阪に欲しいw


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100年に1回しか借りられなかった

2024 年 10 月 12 日 Comments off

大阪市立図書館さんから返却催促メールがきて明日からいわきなんで慌てて深夜1時にチャリで図書館にいって本を返却する。いや、ちゃんと返却してなかったワイが悪いんやけど。すすすすいません!

図書館がないと僕の仕事は成立しない。郷土資料の類には常にお世話になっている。貴重書も多い。マニアックなことを調べていたりするので僕が読みたい本、資料の中には1年に1回借りられるかどうか?というような本もあるだろう。ひょっとしたら10年に1回みたいな珍しい機会だったりするかもしれない。

図書館の本当の価値、凄さというのは「100年に1回しか借りられなかった」というような本が何冊あるか?だと僕は思っている。100年に1回だけの需要。100年に一度現れた、その本を読みたい!という奇特(?)な人がいて、その人のお役に立つこと。それこそが図書館の図書館たる由縁です。公共財(コモンズ)としての図書館の存在意義です。

村上◯樹の新作みたいに読みたいという人がいっぱいいて予約が殺到する本なんてのがいっぱいあることが図書館の価値ではないということです。「貸出率」みたいなことで図書館の本をセレクトするとベストセラーしか置かない無味乾燥な図書館になる。

昔、どっかのTSU◯AYA図書館がまさしくそれをやって、もはや図書館にしか置かれていないという貴重な郷土雑誌のバックナンバーを「あんまり貸し出されないから」と廃棄処分にして大問題となった。おいおい。レンタルビデオやないんやから。そういう「貸出率の低さ」みたいな数字で本の価値を測られると、とんでもない文化的損失を犯しかねない。

人類が多少なりとも他の生物よりも文明的な存在だとするならば、それはつまり文字、記録、資料、本を残しているからなのですよ。100年に一度しか貸し出されない本や資料を保存するというのはタイパ、コスパ重視の新自由主義者からしたら馬鹿らしい非効率的な行為なのかもしれないが、文字、記録、資料、本を簡単に破棄する行為は人類史への冒涜であり、歴史的愚挙であります。

焚書坑儒で秦が滅亡したように、反ドイツ主義の焚書によってナチスが崩壊したように、「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」というハイネの警句は達見です。

ちょっと話は飛びますが、奈良県知事(維新系)の民俗博物館の資料廃棄の検討も僕は非常に危惧しています。我々は焚書的愚行に常に抗わないといけない。それは我々自身を滅ぼすことに繋がりかねない。


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