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100年に1回しか借りられなかった

2024 年 10 月 12 日

大阪市立図書館さんから返却催促メールがきて明日からいわきなんで慌てて深夜1時にチャリで図書館にいって本を返却する。いや、ちゃんと返却してなかったワイが悪いんやけど。すすすすいません!

図書館がないと僕の仕事は成立しない。郷土資料の類には常にお世話になっている。貴重書も多い。マニアックなことを調べていたりするので僕が読みたい本、資料の中には1年に1回借りられるかどうか?というような本もあるだろう。ひょっとしたら10年に1回みたいな珍しい機会だったりするかもしれない。

図書館の本当の価値、凄さというのは「100年に1回しか借りられなかった」というような本が何冊あるか?だと僕は思っている。100年に1回だけの需要。100年に一度現れた、その本を読みたい!という奇特(?)な人がいて、その人のお役に立つこと。それこそが図書館の図書館たる由縁です。公共財(コモンズ)としての図書館の存在意義です。

村上◯樹の新作みたいに読みたいという人がいっぱいいて予約が殺到する本なんてのがいっぱいあることが図書館の価値ではないということです。「貸出率」みたいなことで図書館の本をセレクトするとベストセラーしか置かない無味乾燥な図書館になる。

昔、どっかのTSU◯AYA図書館がまさしくそれをやって、もはや図書館にしか置かれていないという貴重な郷土雑誌のバックナンバーを「あんまり貸し出されないから」と廃棄処分にして大問題となった。おいおい。レンタルビデオやないんやから。そういう「貸出率の低さ」みたいな数字で本の価値を測られると、とんでもない文化的損失を犯しかねない。

人類が多少なりとも他の生物よりも文明的な存在だとするならば、それはつまり文字、記録、資料、本を残しているからなのですよ。100年に一度しか貸し出されない本や資料を保存するというのはタイパ、コスパ重視の新自由主義者からしたら馬鹿らしい非効率的な行為なのかもしれないが、文字、記録、資料、本を簡単に破棄する行為は人類史への冒涜であり、歴史的愚挙であります。

焚書坑儒で秦が滅亡したように、反ドイツ主義の焚書によってナチスが崩壊したように、「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」というハイネの警句は達見です。

ちょっと話は飛びますが、奈良県知事(維新系)の民俗博物館の資料廃棄の検討も僕は非常に危惧しています。我々は焚書的愚行に常に抗わないといけない。それは我々自身を滅ぼすことに繋がりかねない。


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