「いわき名物に馬方ようかんってのがあるよ」と、いわきのごきげんなフリーペーパー『Hi magazine』編集スタッフの高木さんことチャッピーさんに教えてもらって気になっていた。
大阪の図書館にいって調べてみると仙台の老舗和菓子屋『石橋屋』(残念ながら去年、閉店したとか)のご主人・石橋幸作(1900~1976)氏が書いた駄菓子に関するエッセイ(1965年発表)の中に「馬方ようかん」のことが記載されていた。記載されていたが、なんかチャッピーさんから聞いていたものと違う気がする…w こんなですか?馬方ようかんって?チャッピーさん?
あと石橋氏の解説が「もちろん美味いものではありませんが…」と軽くディスっていて…怒られるでw
来月のいわき取材の時には、ぜひとも食べてみたい。馬方ようかん。
住吉名物「閻魔地蔵」。住吉・粉浜村には、かつて六本道があり、六道の辻といわれた。いまは一本増えて、なんと七本道になっているw
人間は死んだら生前の行いを調べられて閻魔大王の裁きを受けて六つの世界に転生するという。地獄、餓鬼、畜生、人間、修羅、天であるが住吉・粉浜の六本道が、その六道への信仰と結びついて閻魔さまが安置された。京都の六波羅信仰と違って大阪はちゃんと「六本道」という具象があるのでわかりやすいw
面白いのが閻魔大王そのものではなくて閻魔地蔵であること。地獄に落ちたさいに救済してくれるのは地蔵菩薩で、じつは閻魔大王の化身というような話もあるが(蛇足だが八尾では閻魔さまと地蔵さまは恋人同士という信仰なんかもあるw)、その閻魔信仰と地蔵信仰が合体した。
いわば閻魔さま(刑罰)と地蔵さま(恩赦)が一緒くたになっているようなもので良い加減というかなんというか…。まあ、住吉・粉浜村の素朴な庶民信仰、民間信仰ですからな。そのへん非常にテキトーですw
さらに面白いのが、この閻魔地蔵さまはいったん前からお参りしたあと、閻魔地蔵さまの裏に回って二度参り、裏参り、念押し参りをするという構造になっていること。
じつは閻魔地蔵さまは住吉の海に漂流してきた…という挿話があり、粉浜の漁民たちが閻魔地蔵さまを発見したあと、これはありがたい神さん仏さんだから住吉さんに持って行こうと担いでいたら、この六本道に差し掛かり、そこでいきなり重くなって動かなくなったので安置された…ということになっている。
そして長い間、暗くて冷たい海の中にいたもんだから閻魔地蔵さまは、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり(中耳炎w)、だから表から一回だけお参りされても願いごと、祈りごとが届かない。裏に回ってもう一度、お参りしないといけない。
これ、要するにえべっさんの信仰です。えべっさんにも同じようなエピソードがあって、だから閻魔地蔵は、じつは閻魔大王+地蔵菩薩+戎神の三体の神仏が合体、習合してるんですな。
この閻魔地蔵さまをお参りすると死んだ際の閻魔さまの裁きでも温情が得られ、仮に地獄にいっても地蔵さまの恩赦があり、さらにえべっさんの現世利益(豊漁、豊作)にも授かれる。なんというか庶民の夢が全部入っております。いやあ、ありがたいですな。庶民信仰万歳!
南無閻魔地蔵
池田郷まち歩き。画像は猪名川。
猪名川(いながわ)はかつてはチョナガワといわれた説がある。チョナ(チョウナ、チョンナ)は古代の朝鮮語だそうで「手斧」の意味とか。
猪名川は神崎川と繋がり、やがて大阪湾に通じる。そのルートを遡上して大陸、朝鮮半島の渡来人たちがやってきた。彼らはチョナ=手斧を使うことに長けた特殊技能民で能勢や妙見の山々に入り、木材などを伐採していたのではないか?と思われる。
猪名川を遡ると摂津国多田庄に至る。いまも能勢電鉄に多田駅というのがあるが、ここが多田源氏の本拠地、発祥地でもある。清和源氏の本流となる源満仲(多田満仲)を祖とする軍事貴族である。
とくに満中の子の源頼信は河内源氏の祖となり、この系統からは八幡太郎義家、頼朝、義経の鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家が誕生している。日本史上最大の名門武家集団として長く全国に覇を唱え、君臨した。
以下は僕の適当、気儘、無責任な妄想であるが、じつはチョナ(手斧)の渡来人たちが能勢の土地に溶け込んで土着化して、やがて武器の扱いに長けた武装集団となり、それが多田満中の配下となって多田源氏の軍事集団を形成したのではないか?と思ったりしている。
猪名川は今現在でも大阪府と兵庫県と県境となっているが地政学的にも大変重要な川であった。また多田には銀山、銅山なんかもあり、ここを抑えないと摂津国は治められません。
ほんまに、いろいろオモロイんですわ。猪名川流域。猪名川文化圏。もっともっと注目されていい。
あ。以下は蛇足のまち話。昔、池田郷にはたくさん賭場があったとか。警察が賭場の現場に踏み込む。すると賭場の関係者や客はみんな一目散に猪名川に逃げて川向こう(西側)の川西市側に入った。すると川西は兵庫県なんで兵庫県警の管轄。大阪府警は手が出せない。猪名川の池田郷側から地団駄踏んで悔しがったとか。そうやって池田郷の賭場は大いに発展、繁盛したらしいw
新世界界隈は第5回内国勧業博覧会(1903)のあとに博覧会場跡地に作られた。開発したのは大阪土地建物株式会社で代表が土居通夫。その土居通夫の「通」をとって「通天閣」と名付けられ、名付けたのは藤澤南岳とされる。
明治日本は西欧列強諸国に認められるような近代国民国家を目指し、そのために万国博覧会(万博)の実現、開催を目論んだ。当時は万博をやり遂げることが一等国、一流国の仲間入りの証明であったから万博開催こそは近代日本政府の悲願であったといっていい。
しかしいきなり万博をやりたいといってもまだまだ国際的地位も低く、国力の脆弱な日本では開催できない。そこで万博のための予行演習、準備運動として日本国内だけで「内国勧業博覧会」を開催することにした。第1回(1877)、第2回(1881)、第3回(1890)は東京・上野、第4回(1895)は京都の岡崎、そして第5回(1903)を大阪・天王寺(新世界)で開催したが、この第5回の内国勧業博覧会は、それ以前の内国勧業博覧会と比べても別格の規模とスケールで展開された。
というのも開催前に日本政府が工業所有権の保護を認めるパリ条約に加盟したので、内国勧業博覧会といいながら海外国の参加も可能となり、14カ国18地域の参加があり、来場者数も530万人を超えた。これはブリュッセル万博(1897年、780万人)には及ばないが、バルセロナ万博(1888年、230万人)などは優に抜いている。日本初、アジア初の万博開催の夢、悲願を果たすのはそう遠くない…というレベルに達し、素晴らしい実績を残したといえる。
しかし日本は以後、内国勧業博覧会を開催することはなかった。というのも第5回内国勧業博覧会の翌年、日露戦争(1904、1905)が勃発し、日本はそこで勝利を収め(ギリギリの辛勝であったが)「帝政ロシアを撃退する」という劇的な事件によって西欧列強諸国から認められる一等国、一流国となってしまった。
歴史の皮肉というか悲劇というか、日本は、ある意味で「戦争」という手段で国際社会に華々しくデビューしてしまったわけです。そういう形で一流国と認められ、成功体験を得てしまった日本は、その成功モデルに固執してしまい、脱却できず、昭和に入ると戦争拡大路線に突き進み、破滅を迎えることとなってしまった。
歴史に「if」はないのですが、もしも日露戦争がなく第5回内国勧業博覧会のあとに日本初、アジア初の万博を開催することができていたら日本はもっと平和的に、文化的に、友好的に世界の国々に認められる一等国、一流国になっていたかもしれない。
個人的には、可能であれば、できることなら、そういう形で日本という国が認められてほしかった。通天閣をみるたびに、そんなことを考えたりします。