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内国勧業博覧会

2024 年 12 月 3 日

新世界界隈は第5回内国勧業博覧会(1903)のあとに博覧会場跡地に作られた。開発したのは大阪土地建物株式会社で代表が土居通夫。その土居通夫の「通」をとって「通天閣」と名付けられ、名付けたのは藤澤南岳とされる。

明治日本は西欧列強諸国に認められるような近代国民国家を目指し、そのために万国博覧会(万博)の実現、開催を目論んだ。当時は万博をやり遂げることが一等国、一流国の仲間入りの証明であったから万博開催こそは近代日本政府の悲願であったといっていい。

しかしいきなり万博をやりたいといってもまだまだ国際的地位も低く、国力の脆弱な日本では開催できない。そこで万博のための予行演習、準備運動として日本国内だけで「内国勧業博覧会」を開催することにした。第1回(1877)、第2回(1881)、第3回(1890)は東京・上野、第4回(1895)は京都の岡崎、そして第5回(1903)を大阪・天王寺(新世界)で開催したが、この第5回の内国勧業博覧会は、それ以前の内国勧業博覧会と比べても別格の規模とスケールで展開された。

というのも開催前に日本政府が工業所有権の保護を認めるパリ条約に加盟したので、内国勧業博覧会といいながら海外国の参加も可能となり、14カ国18地域の参加があり、来場者数も530万人を超えた。これはブリュッセル万博(1897年、780万人)には及ばないが、バルセロナ万博(1888年、230万人)などは優に抜いている。日本初、アジア初の万博開催の夢、悲願を果たすのはそう遠くない…というレベルに達し、素晴らしい実績を残したといえる。

しかし日本は以後、内国勧業博覧会を開催することはなかった。というのも第5回内国勧業博覧会の翌年、日露戦争(1904、1905)が勃発し、日本はそこで勝利を収め(ギリギリの辛勝であったが)「帝政ロシアを撃退する」という劇的な事件によって西欧列強諸国から認められる一等国、一流国となってしまった。

歴史の皮肉というか悲劇というか、日本は、ある意味で「戦争」という手段で国際社会に華々しくデビューしてしまったわけです。そういう形で一流国と認められ、成功体験を得てしまった日本は、その成功モデルに固執してしまい、脱却できず、昭和に入ると戦争拡大路線に突き進み、破滅を迎えることとなってしまった。

歴史に「if」はないのですが、もしも日露戦争がなく第5回内国勧業博覧会のあとに日本初、アジア初の万博を開催することができていたら日本はもっと平和的に、文化的に、友好的に世界の国々に認められる一等国、一流国になっていたかもしれない。

個人的には、可能であれば、できることなら、そういう形で日本という国が認められてほしかった。通天閣をみるたびに、そんなことを考えたりします。


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