SAKAI賞・未来賞
堺の実家に帰ると、なぜか「SAKAI賞・未来賞」の受賞記念プレートが飾られていた。平成19年ということは西暦でいうと2007年。僕は29歳でした。
当時はテレビ業界を辞めてフリーでライターをやったり、イベンターをやったり、アートNPO法人を作ったり…とあちらこちらに顔を出してフラフラしていたが、まち歩きという方法論、手法の面白さ、可能性に気づき、自分なりに試行錯誤をしていた時代だった。
自分の考えるまち歩きプロジェクトをなんとか世の中に出したい、カタチにしたいと考えていたが、なんせこちらは最終学歴中卒で、学歴もなければ、金もなければ、実績もなければ、コネもない。しかし毎日新聞社さんがスポンサーで堺商工会議所がビジネスコンペをやることを偶然、知り、これや!と堺のまち歩きプロジェクトの企画書を書いて提出した。
企画書は無事に一次審査を通り、最終審査で審査員の前でプレゼンをすることになったが「こりゃ一発かましとかなあかん」と、千利休のコスプレ(和装に利休帽を被る)をして、さらに他の企画者はみんなプロジェクターでパワポでプレゼンするから、こっちはアナログでいったれ!と紙芝居を使ってまち歩きプロジェクトの企画を伝えたら審査員から面白がられて奇跡の受賞に繋がった。
そもそも当初は「未来賞」というのはなくて、しかし僕のプレゼンが評判が良かったらしく特別枠として「未来賞」というよくわからない賞(失礼!)が急遽作られて受賞することが出来た。当時の審査員、誰一人として覚えていないが(申し訳ございません)、ありがたいことです。
また毎日新聞さんがスポンサーだったから受賞式の様子などが毎日新聞に掲載され、これがたまたま堺市観光部のS部長の目に止まり、連絡がきて、そこから堺市観光部とのおつきあいが始まった。S部長は国交省から堺市に出向していたキャリア官僚で、さすがに素晴らしい先見の明の持ち主で、いろんな業界関係者を紹介されて、いまもご恩を感じている。
さらには、その関係者の中に大阪市役所の観光関係者がいて、僕の受賞した企画書を読んだ方から会いたいとコンタクトがあり、じつは大阪市もまち歩きプロジェクトを始動するつもりであるというので、そこのプロデューサーに就任することになり、これが大阪あそ歩となった。あそ歩は関係者各位のご協力もあり、ありがたいことに大成功して、2012年にコミュニティ・ツーリズムのプロジェクトとしては日本初となる観光庁長官表彰を受賞した。翌年の2013年に僕はあそ歩をやめるが、まあ、まち歩き自体は、ずっと僕は野良で、アウトサイダーで続けている。
それなりに長くなってきた僕のまち歩き人生(?)であるが、振り返ってみると最も大きい影響と効果を与えてくれた受賞が、この「SAKAI賞・未来賞」だったように思います。記念プレート、大事にせなあきませんな。ホコリかぶってるけど。なんでか僕の部屋やのうて弟の部屋に飾られてたけど(オカンが設置した)。