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2025 年 6 月 23 日 のアーカイブ

近接性の場のメディア(まわしよみ新聞)

2025 年 6 月 23 日 Comments off

「国民とは同じ新聞を読んでいる人たちである」というのがベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』理論。

かつての新聞は、しかし「場のメディア」「共有のメディア」であったことは忘れてはならない。新聞はコーヒーハウスで、新聞縦覧所で、家庭内で、「回し読まれるメディア」であった。決して「個」だけでは完結しない。

新聞は「顔が見える関係性」の中で、その近接性の中で回し読まれて、共に語り合うメディアであった。新聞そのものは「エクリチュール(文字のメディア)」であるが、実は「パロール(声のメディア)」であったともいえる。「新聞」が「新見」や「新読」でなく「新聞」という表記であることは、新聞が対話、会話のツールであり、「音声メディア」であったことの本質を突いている。

ネットメディアは場ではなく、個で完結し、また匿名的なものが大半です。「顔が見えない関係性」の中で文字のやりとり、応酬が繰り広げられる。そして文字というのは、なかなか情感が伝わらない。

これが声のやりとりならば、その声量や声の高低、声色、声の調子やら息遣い、間といったフィジカルな要素があって、「言外の言」的なニュアンスが相手に伝わったりしますが、ネットメディアでは、それらが削ぎ落とされてしまう。非常に冷淡で、無味乾燥で、人間味がないやり取りに見えてしまう。

ネットメディア上のやりとりの多くが、なんとなく対立的で、対峙的で、闘争的に感じられるのは、メディアとして近接性がなく遠隔性のメディアだからでしょう。

川のあちらとこちらで石を投げ合って、お互いの味方同士で相手のことをバーカバーカといいあっているような、不毛なネットメディアのやりとりが多い気がするのは、このネットメディアの「遠隔性」にあるのではないか?と思います。「近接性の場」がない状態で、人が何かやり取りをしても、なかなかわかりあえることは少ないようです。

まわしよみ新聞は、みんなで場に集まって、新聞を持ち込んで回し読むという、新聞が本来、持っていた「近接性のメディア」としての役割を再現、試してみようという社会実験のデザインです。

遠隔的で個のメディア(ネットメディア)全盛の時代ですが、だからでこそ、近接的で場のメディア(まわしよみ新聞)を体験してみることで、いろいろとメディア特性について感じたり、考えたりすることもあろうかと思います。

そんなことをして一体、何の意味があるの?という疑問もあるかもしれませんが、個人的には、現在のネットメディア時代は個個の対立を拡大、肥大化させて、それが結局、分断政治の温床になっているように感じています。

近接性の場のメディア(まわしよみ新聞)を体験することで、国民(想像の共同体)意識とまではいいませんが、コモンズ(共異体)のようなものは確実に芽生えてきます。分断でなくて共鳴、共振、共感のメディア体験であること。そして、それこそが民主主義の要であり、涵養に繋がるのでは?と僕は思っています。

全国まわしよみ新聞サミットは、7/21(月祝)に横浜・ニュースパーク(日本新聞博物館)さんで実施されます。

まわしよみ新聞未経験者、初心者も大歓迎で、お子さんの参加もOKです。すでに親子、小学生の参加申し込みが何名かあり、小学生新聞などもご用意頂きます。

毎年、日本全国各地から参加者がきて、いろいろとまわしよみ新聞を介して人的交流、知的ネットワークが芽生えています。ぜひともご参加してください!( ´ ▽ ` )


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