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2025 年 10 月 のアーカイブ

地方の衰弱こそが日本の衰弱

2025 年 10 月 5 日 Comments off

ニッシーのご案内とご紹介で阿賀町役場にいき、いわき時空散走と歌垣風呂について説明。その後、新潟市役所も訪問して、まちなか観光の担当者の方に、いわき時空散走について話をする。ありがたいことに反響は良かったと思います。嬉しい( ´ ▽ ` )

福島も新潟もやたらめったら広い。広いからどうしても車社会になってしまう(いわき市は日本の中核市の中で最も自動車依存率が高い都市です)。しかし時速50キロ、60キロみたいなスピードで車移動をしていたら地域、地元、ふるさと、コミュニティなんかまったく見えてこない。わからない。何も知らない。それで「自分のまちには何もない」なんてことを平気でいってしまう。

まちの歴史、文化、物語、魅力に触れないから愛郷心が寛容されず、「地方には何もない」なんていう哀しい若者になり、だから都会に出ると、自分のふるさとに帰ってこない。車社会の弊害、悪影響は地方都市の人口流出の問題なんかにも繋がっています。

こういう地方都市の車社会偏重、重症的な車依存の構造から脱却するためのツール、手段として自転車(電動自転車)という交通インフラの整備と普及は必須、当然であるし、「地方都市×自転車」という組み合わせは、時代の要請もあれば、地方都市再生のキッカケ、一助になると僕個人は思ってます。

地方の衰弱こそが日本の衰弱です。なぜ僕がいわきやえびので時空散走、自転車観光、コミュニティ・サイクル・ツーリズムをやるのか?というのも、そうした社会課題への挑戦です。


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大阪でのまち歩きは、もはや僕なりのレジスタンス、引かれ者の小唄、滅びの美学であります

2025 年 10 月 5 日 Comments off

ずっともうかれこれ18年ぐらい僕は大阪で「大阪の人が大阪のまちを歩く、楽しむ、遊ぶまち歩き、地産地消の観光、内需の観光、コミュニティ・ツーリズムをやりましょう!」といって実際に実践もしてきましたが、維新政治でコミュニティ・ツーリズムのプロジェクト(大阪あそ歩は観光庁長官表彰も受賞して、大阪は日本でも有数のコミュニティ・ツーリズムの都市になる可能性はあったのに…)は予算ゼロになって僕はめでたく卒業(失職だけどw)になったし、その後、大阪市政は完全にインバウンド観光に振り切ってカジノ万博を開催して、もうまちなか、道頓堀なんかにはほんまに日本人がいない。歩いていない。インバウンド客だらけで道頓堀はジェントリフィケーションの問題がおこり(松竹座閉館もその流れやないですかね?)、オーバーツーリズム、観光公害の実態や危険性にようやく少し気づき始めて「あれ?これ?まずくない?」というのが一般の方々にも周知、認知されるようになってきた…かな?まだ、この外資依存、外需頼みの路線、続けますか?日本の内需やら地産地消を成長、促進させる方向に社会を、経済を、産業を転換しませんか?

まあ、僕は、愚直に、実直に、淡々と、大阪で、まち歩きし続けますよ。大阪でのまち歩きは、もはや僕なりのレジスタンス、引かれ者の小唄、滅びの美学であります。

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インバウンド政策に市民の怒り「自国民は置き去り」「効果感じられず」 経済専門家が「観光立国は無理」とする決定的理由(AERA DIGITAL)

https://news.yahoo.co.jp/articles/6e257f40b8bb2d3a17422f0e997cc5dbd8a1bc63


https://news.yahoo.co.jp/articles/6e257f40b8bb2d3a17422f0e997cc5dbd8a1bc63

■「観光立国」は成り立たず

経済のプロはどう見ているのか。作家で社会的金融教育家の田内学さんはこう指摘する。

「経済の視点から見て、観光立国は成り立ちません」

なぜなのか。そのボトルネックは「人手不足」だという。

背景から見ていこう。日本は衣食住に欠くことのできない資源の多くを輸入に頼っている。エネルギー自給率は15.3%(2023年度)。食料自給率(カロリーベース)も38%(同)にすぎない。

「外国からエネルギーや食料を購入するためには外貨が必要です。では、どうやって外貨を稼ぐのか」(田内さん)

■観光産業には「労働力」が必要

現在、日本は資源エネルギーの輸入にかかる約24兆円の大半を、自動車の輸出(約20兆円)で賄っている。一方、家電メーカーは衰退し、稼ぎ頭だった家電や電子機器の輸出は世界でシェア争いに敗れ、低迷している。

さらに少子化が進み、どの業界も慢性的な人手不足だ。できるだけ少ない人数で、効率よく外貨を獲得する必要があるが、観光産業は労働集約型で、人間の労働力を多く必要とする。

「観光産業が大きくなれば、さらに人的リソースが必要になり、人手不足がさらに深刻化します。すでに観光産業に人材を吸収されて、観光地では介護などの分野でサービスが受けられないことが起きています。別の方法で外貨を稼がないと生活基盤が支えられなくなる」(同)

■日本経済は成長するどころかしぼむ

日本は資源エネルギーだけでなく、デジタルサービスも海外から購入し、貿易サービス収支は慢性的な赤字になっている。

「人手が足りない中で、外貨を効率よく稼ぐには先端技術に力を入れる必要がある。もちろん観光産業での外貨獲得も必要だが、それで“立国”するのは無理がある。日本経済は成長するどころか、しぼんでしまうでしょう」(同)

状況は厳しい。いま、世界を席巻するのは、グーグルやアマゾンのようなプラットフォーム企業で、少ない人数で多額の外貨を得るビジネスモデルの典型だ。

「寡占状態のプラットフォームビジネスにこれから打って出て、収益を上げるのは困難でしょう。だからといって『観光立国』という戦略は根本的に間違っている」(同)

■人手不足の実感が政治家に希薄

なぜ、日本は観光立国に突き進もうとしているのか。

「数十年も前の人が余っていた時代に慣れてしまい、『人手不足』の時代にいるという実感が政治家にはないのでしょう。かつての前提条件で思考する人は、専門家も含めて少なくないと感じています」(同)

田内さんはこう総括する。

「観光立国で、確かに一部の産業に『光』はあるとはいえます。それ以上に『影』が濃いのです」

国民は「観光立国」が落とす深い影を、肌身で実感している。


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ソフト的な「型(エトス)作り」

2025 年 10 月 5 日 Comments off

次から次に「場」(トポス)を作る人はいるが維持が大変で。僕はハード的な場作りではなくソフト的な「型(エトス)作り」を考えた。それがまわしよみ新聞などの一連のコモンズ・デザインです。多種多様な人的交流を促すコミュニケーション・ツール(型)が「場」を活性化させる。


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社会全体に、学びのキャパシティが担保されていない

2025 年 10 月 5 日 Comments off

日本経済新聞から。日本人は中学、高校までは世界的にも知的レベルは高いらしい。しかし大学で停滞し、社会人になると、どんどんと知的レベルが世界水準よりも低下していくという。

どうも日本人の大多数は社会に出ると…会社で働いたり、家庭を持ったりすると、途端に仕事や生活、子育て、親の介護などに追われてしまい、学びの機会がなくなる。また会社側や社会側も多くの社会人に対して、そうしたリスキニングやリカレントの機会や場、時間を提供、準備、用意していない。

以下は僕の実感で、この記事にはないんですが、実は会社をリタイヤしてから、子育てが一段落してから、シニア世代になってから、また学びだす人は多い気がしています。

実際に僕は生涯学習、カルチャーセンター、市民大学系の仕事をあちらこちらでしていますが、30代〜50代の人は、まあ、ほぼ、来ない。ゼロに等しいです。その代わり60代以上のシニア世代はめちゃくちゃ多い。70代80代、なかには90代でも参加という方もいる。

そういったシニア世代の「学び直し」への意欲の高まりには正直、驚かされます。めちゃくちゃ学習、勉強をすることに熱心で、興味関心が高く、僕も講師をやっていて、自然と力が入る。講義を受ける側が前向きだから、僕も手を抜けない。本気になります。だから面白い。

ただ、シニア世代の、そのちょっと「異様」なまでの学習意欲の高まりの背景、裏側には、ある種の「渇望感」「飢餓感」を感じたりもします。つまり人生の最盛期、キャリアピークである30代〜50代(古代インド人がいうところの「家住期」)に「学びの時間を持てなかった」「学びを奪われてきた」という後悔や欠落を感じるんですな。

海外の市民講座や生涯学習、カルチャーセンターは30代〜50代の現役世代が大半なんだとか。そうやってリスキニングやリカレント、学び直しの時間があることで自分の人生設計も自然と変容していく。

自分の中に新たな才能や得意分野を発見して、それをさらに追求したり、研鑽を積むことが可能となる。そこから学問的、アカデミックな業績に繋がったり、社会的な活動を始めて、副業や転職、起業したりなんてことも往々にしてあるとか。

大体、10代20代で、自分の将来、仕事や職業を規定するなんて、あまりにも無謀すぎまっせ。それが自分の性質、性格、特性、パーソナリティと合致しているなんてわからないし、むしろ不一致であることの方が多いでしょう。

そういったさいにもう一度、「学び直し」ができる環境、再チャレンジが許容される状況にあることが、どれだけ社会的に有用で、大切であることか。

日本人のシニア世代の学習意欲の高まりは素晴らしいことですが、惜しむらくは、学んだことを、なかなか社会的な活動や貢献に繋がることは難しいということです。体力的に、健康的に、年齢的に、どうしてもそうなります。

基本的に、だから、シニア世代の学び直しは、どうしても「余暇的な学び直し」「趣味的な学び直し」になってしまう。それがダメというわけではないんですが、もっと早くに、50代に、40代に、30代に、生涯学習やカルチャーセンター、市民大学などに参加していれば、人生にまた違う彩りが、豊かさが生まれていたかもしれない。

シニア世代の受講生が、みんな口癖のように「もっと早くに学びたかった」とほんまにいうんですよ。みなさんも惜しいんですな。「しまった!」と思っている。僕もそう思います。早くに受講の機会があれば、いろいろと可能性があったかもしれない。実に惜しい。

30代や社会人になってから、学び直しの機会がないこと。リスキニングやリカレントに参加する社会人が圧倒的に少ないこと。これは日本社会全体の教育システム不全であり、重大な社会的損失です。

人生は常に学び続けないといけない。学びを辞めてはいけない。生きるということは、常に学ぶということです。学びを辞めては、止めては人生が、社会が停滞する。

学びの機会がないわけではないと思うんですよ。実は、そういったリスキニング、リカレントの場や機会自体は、いろいろと行政や民間会社によって提供されてはいる。いちょうカレッジとかいずみ市民大学とかよみうりカルチャーとか毎日文化センターとか、いろいろあります。全部、僕が講師してるところですがw

そこに参加する人がシニア世代ばかりで偏ってしまっている。30代〜50代の現役世代がどうしても少ない。いろいろと生活やら暮らしで忙しいというのはわかりますが、やっぱり、これ、勿体ないことです。

社会全体に、学びのキャパシティが担保されていない。かなり憂慮すべき現代日本社会の事態ではないかと思います。いや、ほんまに。

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◾️ 日本人の知力、24歳で頭打ち 「学べぬ大人」手薄な支援

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE054IG0V01C24A2000000/


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